文/山東の大法弟子
【明慧日本2021年5月27日】『轉法輪(巻二)』の「佛性」という法の中で、師父は「善念とはなんでしょうか。釈教は念が生じれば、それが業になると説きました。本当のところ、更に高い判断基準、真善忍という更に高い要求から見れば、いわゆる善念に対する解釈も変わります」と説かれました。この法の一節は、どのような理を説いているのでしょうか? 私はずっと実感することができませんでした。最近になって、少しずつ分かってきたことがあります。
たまたま最近、小さな事件に遭遇し、この法の一節を受けて、個人の修煉から法を正す修煉へと移行して対応したところ、常人の間違った行動に対してどのように行動すべきかが明確に理解できたのです。何が起こったかというと、事件の経緯はこうです。
私は職場で、部隊の菜園用の苗の購入などを担当しています。ある同僚は、毎年少しの苗と肥料を要求し、種苗場に連れて行かれて「自分で買ってください」と言われても、それをせずに部隊からのものを待っているだけです。
私は彼の行動を無視していましたが、それは安いもので、彼がそれを欲しがるなら、与えればいいと思っていて、しかも、上司もそれを承諾しました。
しかし、明慧ネットの記事を読んで、自分がどのような概念に触れたのか、自分自身を振り返るようになりました。気がつけば、かつての自分のいわゆる「善良さ」は、人の優しさのようなもので、人の悪さを指摘することは、相手の感情が傷つくのを恐れて恥ずかしくてできない、小さな悪さは諦めて認めていますが、大きな悪さはあえて相手にしないのです。私は、自分の地位が低いから、何を言っても相手に重んじられないと思っているので、陰でひそひそ話をすることしかできないのです。同時に、どんな事に忍耐すべきか、どんな事を忍耐してはいけないのかもわかりませんでした。
ふと気がつくと、自分はお人好しのようで、まったく立場がありません。
そこで私は自問しました。自分が利益を手放せないからこそ、心を静められないのではないか? それとも、私は彼の行動を見下しているからだろうか? 確かに彼は徳を失ってしまったが、それは因縁関係のせいなのか? 師父は、旧勢力の按排を完全に拒否することを説かれているのではないか? どうして、私は彼の問題点を慈悲を持って指摘することができないのだろうか?
私は人情を守るという概念を取り除きました。それによって卑屈になることもなくなり、真・善・忍という基準で物事を見ることができるようになり、よりのびのびと、毅然と、より優しさを持って生きることができるようになりました。
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】