心を開いてから
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年8月14日】同修Aさんの執着心がなかなか取り除かれないのを見て、私は同修Bさんに相談しました。しかし、Bさんに「なぜ直接Aさんに言わないの?」と言われ、私は啞然としました。

 Aさんとは長年の知り合いです。当初、年齢が近いため、Aさんは親切な人で信頼を感じ、知り合ってまだ間もない時に、当時、私を困らせていた色欲の問題をAさんに相談しました。しかし、まもなくして、Aさんと口論になりました。予想外なことに、Aさんは私の色欲の問題を持ち出して、皮肉を言ってきました。まさかこのようなことを言われるとは思っていませんでした。今でも当時、嫌みを言われ頭の中が真っ白になりショックを受けた時の気持ちをはっきりと覚えています。まさに信頼を裏切られたのです。

 その時は、あまりにも悲しくて無力で、何も言い返しませんでした。それ以来、Aさんに心を閉ざしました。幸いなことに、Aさんのことを完全に突き放していなかったので、その後、Aさんと協力しながら様々なことを行いました。表面上、仲直りしたように見えましたが、実は、Aさんに心を開いたことがありません。Aさんにまた思いも寄らないことを言われるのが怖くて、自分を守っていました。時間が経つにつれてそれが習慣となり、Aさんと心を通わせた交流を行ったことが一度もありません。

 自分を変えようと決心し、自らAさんに話しかけましたが、Aさんは受け入れてくれず、きついことばかり言ってきます。もしかすると、私がこのことに執着しすぎたのかもしれません。

 しかし、このままでは、自分にもAさんにも無責任なので、何度も私はAさんに話しかけて交流しようとしました。しかし、Aさんは呆然として、どうやって自分を探せばいいのかわからないと言ったのです。これ以上Aさんが変わることはないと思い、もう何も言わなくなりました。

 後に、学法を通じて、修煉とは自分を修めることであり、他人に着目してはならないことを悟りました。ある日、最近怠けてきたとAさんと雑談している時、私に「本当に怠けていると思うよ」と先に言われてしまいました。しかし、私から見れば、Aさんの方がよっぽど怠けているので、少し不機嫌になりました。

 このことで修煉の厳粛さを感じました。自分が心を開いたからと言って、相手が優しく受け入れてくれるとは限りません。

 自分1人になると、せっかくちゃんと交流しようと決めたのに、どうしてまたきついことを言われたのかと悔しくなりました。

 あれこれ考えてみると、ふと、自分は他人に言われたくないという執着があることに気づきました。同修が向上できるチャンスを提供してくれたのに、私をそれを突き放したのです。

 このことに気づき、他人に言われることを恐れてはいけないと自ら励ましました。同修は私の鏡なのです。

 Aさんからの伝言をもう1人の同修に伝えているとき、何やら誤解が生じたらしく、その同修に怒られました。私はその同修に言われたことをAさんに伝えて、自分が悟ったことも伝えました。以前はAさんが自分を修めておらず、自分を探すこともできないまま、いつも常人の理で物事を図っているから法理で交流しても理解してもらえないと思っていましたが、今回は、これらの観念を放下して、何も考えずに言いたいことをAさんに伝えました。

 このように2回ほどAさんと交流した後、Aさんがまるで人が変わったかのように思いました。自分を修めるようになり、自分を探すこともできるようになったのです。本当に不思議です。自分自身を変えるよう努力していくうちに、同修も変わったのです。

 今では、Aさんと直接交流できるようになりました。お互い言いたいことをはっきり言うようになったので、空間場もすっきりしました。心を開いてから、同修の成長が見えるようになりました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/5/20/421705.html)
 
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