文/日本の大法弟子
【明慧日本2022年2月16日】幼い頃から脚が硬く、これは観念だと分かっていても、坐禅するときには、とても辛かったのです。
大法を修煉してから、私は半年かかって双盤できるようになりました。坐禅のときに脚が痛み、修煉の十数年間は坐禅がしたくなく、時に怠けていました。最近の数年間は学法や煉功を強化して、坐禅も毎日していました。1時間の坐禅もそんなに難しくなくなり、とても早くに突破できました。
坐禅する過程の中で、たくさんの神秘的な体験もあり、1時間半坐禅していたこともありました。しかし、修煉の道はずっと順風満帆ではなく、最近坐禅のとき脚が痛むことがあります。ある朝、坐禅の痛みを突破しました。最近よく周囲の何人かの精進している古い同修にもこの状況があると聞き、同修に少しでも役に立てばと思い、自分の体験を書き出しました。
一般的に修煉の時間が長い古い同修からすると、もし坐禅のときによく脚が痛み、煉功音楽の最後まで堅持できないとき、私達は多く内に向けて探すべきで、心性を高めるべきではないか、あるいは自分の最近の学法が少ないとか、心が落ち着いていないとかを考えます。私の体験では、もし法を良く学べば、執着心が少ない時は容易に入静や入定ができ、このような身体は他の空間にあり、この空間の肉体は痛みを感じなくなります。
私は学法や内に向けて探すとき、真剣に探しますが、最近また坐禅のときに脚の痛みがあり、時に強烈な痛みで耐えられないほどです。2日前の朝、坐禅をして40分のとき脚が痛みはじめ、心を落ち着かせる努力をしたら、自分のミクロの中に入ったようでした。私はかつて抱輪を2時間したときに体験したことですが、腕が痛み出したら、自分を静かにさせて入静出来るようにし、入定の状態になりました。このようにすれば注意力が肉体に向かず、痛みを感じなくなります。
私は痛みを恐れることはないと悟り、痛むこと自体が問題なのではなく、肝心なのは痛むときに心が揺れるその人心なのです。痛みに耐えられないその人心を捨てることが重要です。
私達が知っているのは、三界の中で人に多くの制限と各種の要素が設けられています。例えば、私達がよく言う「老、病、死」です。その痛みも一種の「痛」という要素が肉体上で作用をしていて、私達は修煉者としてそれを超えるべきです。私達の人体が構成されたとき、痛みを感じる部分が按排されましたが、私達はそれを受け入れず、それを超越すれば、再度これらの低次元の要素に動かされなくなると悟りました。ここまで達したければ、まず私達の思想観念を人間から超えなければならず、痛みを恐れる心を抱いていれば、どのように超越するというのですか?!
脚の痛みが襲って来たとき、私はその私を苦しめる心と、痛みを恐れる心を掴んで、それと自分を切り離します。またその痛む背後は業力で、それが痛んでいるのです。私はその痛みを受け取らず、痛みは自分のその人心をも取り除きました。まだ脚が少し痛むときがありますが、すでに私の心を妨害することは出来なくなりました。それに動かされなければ、自然と堅持出来、苦しみもそこまでではなくなります。
前日まで死ぬほど痛くても、最後の1秒まで耐え忍んでいたことを思い出し、現在考えを変えてから、こんなにも大きな変化が顕著に現れ、人間の観念が自分を阻害していたのだと心の中で感慨し、また大法の玄妙さと神秘を感じました。
以上は自分の次元で悟ったことで、もし法に則っていない部分がありましたら、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。