修煉者の「忍」について語る
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文 /黒龍江省の大法弟子  

 【明慧日本2023年2月1日】修煉中でどのように「忍」を修めるべきかについて、同修たちは様々な認識を持っていました。中には「常に寛容であってはいけない、それは悪の部分を容認することになる」と言う同修もいれば「修煉者として常に寛容でなければならず、他人と争ってはいけない」という同修もいました。

 私が法を得たまもない頃、知り合いの同修がいましたが、彼女は家庭のトラブルに対し「相手が悪いなら甘やかしてはいけない」、「甘やかしていたら、相手の過ちや欠点を容認することになり、他人に対して無責任になる」と考え、容認しない態度を取りました。その後、この同修の家庭内対立はますます激しくなり、旦那さんの浮気相手のところまで行き、大喧嘩をしたと聞いています。 しかし、次第にその同修は修煉をほとんどしなくなり、現在に至るまで修煉に復帰していません。 そして、彼女の夫に対する態度は決して変わりませんでした。当時はまだこの問題の法理について認識が浅く、その同修とどう交流したらいいのか分かりませんでした。

 その後の修煉を通じて、私は我慢できた時は大抵うまくいきますが、我慢できなかったときは結果が悪く、後から後悔することが多いということに気づきました。表面では我慢できても、心では耐えられない時もあり、我慢したことについて苦痛や悔しさを感じないという修煉者の「忍」の境地には達していませんでした。

 数年前から、娘と私の間のトラブルは緩和されたことがありません。 娘は結婚後、2人の子供を産んだので、私はよく娘の家に手伝いに行っていました。 しかし、娘の家にいると、自分の家にいるときほど心の穏やかさを保つことできません。ここの家族間の関係は複雑で、心性を鍛える面において試練は深刻で、私と皆、たとえ3歳の子供でも、彼らとの接触で私の人心が明らかになっていたのです。特に娘との揉め事は骨身にしみるものでした。

 ある同修は、私と娘の対立は、娘への「情」が原因だと指摘しました。私もそうだと思っていましたが、この「情」の具体的な表れ方は何なのかと思いました。それについて、同修は指摘することはありませんでした。私もこの「情」を捨てたいと思ったのですが、どうしたら捨てられるのでしょうか? 私はずっとその方法を探し続けましたが、探し続けても見つからず、もうダメかと思うほど惨めな気持ちになるときもあり、この難関はもう乗り越えられないのではないかと思いました。 しかし、苦しいときはいつも「もっと法を勉強しなければ」との一念が湧いて来て、これはきっと師父がヒントを与えてくださっているのだと思い、毎日法を学ぶことにしたのです。そして最近は『洪吟六』を暗記しました。

 法の中で私はだんだん目覚めてきました。「私はなぜこんなに心が痛むのか、心の穏やかさを保つべきだが、何が原因でこんなに心が痛むのか?」私は内に向けて探すポイントを「なぜ私はこんなに心が痛むのか」に置いたところ、やっと悟れました。この心の痛みは情によるものであり、娘に対する「情」が深ければ深いほど、心は痛んでくるのです。「情」を手放せないからこそ心の痛みを感じるのだと分かりました。

 痛みを感じた時、私は常人であって、娘への情を捨てて、血縁もない存在として接すれば、それは昇華であり、修煉者の到達すべき境地なのだと私は悟ったのです。 このことに気づいてからは、再び娘との衝突に遭遇したとき、私は自分の心が動いていたかをチェックし、もし動いていればすぐに否定し、それを受け入れないようにしました。このような試験を何度も経験し、時にうまく行くときもあれば、うまくいかないときもありましたが、次第に心が痛まなくなりました。娘と衝突した時でも心が穏やかになり、時には厳しい顔で娘に嫌われるのを見ても喜べるようになりました。 この時、ふと自分の心が慈愛に満ちていると感じ、慈愛とはどういうものかを体験しました。本当に穏やかで、恨みや悔しさもありませんでした。これこそが修煉者が修めるべき「忍」ではないかと思います。

 その過程で、娘にも考え方や外見に大きな変化が見られました。

 以上は、私の限られた次元での修煉体験です。不足などがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/1/27/455162.html)
 
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