青年大法弟子:大法の中で真に修める(二)
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 【明慧日本2023年6月19日】(前文に続く)

 ニ、環境への依存

 私が子供弟子だった頃、よく子供弟子が修煉をやめてから悪くなったという噂を時々耳にしたことがありました。 当時、私は少し戸惑ってしまいました。自分も彼らのように大人になれば修煉をやめたり、普通の人よりも悪くなったりするのだろうかと考えました。以前は、どんな状況でも基本的に自分の修煉状態を比較的納得のいく水準に保つことができました。しかし、大学に進学してから、それまでの修煉があまりにもしっかりしていなかったことが分かりました。

 修煉状態というのは、他の人に見せるためのものでもなければ、外圧や状況などによって演技出来るもでもありません。集団修煉の環境を離れた後、私の修煉状態は非常に悪いことに気づきました。高校生のすべての時間はスケジュール通りに組まれていて、機械の部品のように繰り返すだけでした。大学生になった今、授業の時間は少なくなりましたが、課題の内容は難しくなり、量も多くなりました。授業に費やす時間以外に、勉強やプロジェクト、修煉などのバランスをとることは大きな試練になりました。

 時間管理からして、私は全くできていませんでした。多くの場合、三つのことを第一に優先していませんでした。自分の中ではうまくやりたいのに、なぜかいつも計画から逸脱してしまって時間を無駄にしてしまうのか不思議でなりません。その理由を探るために、内面を見つめるようにしました。以前見せていた修煉の状態は、実は自分のメンツの心によるものだったことに気づいたのです。たとえ私は意図的に自分が特に精進していると皆に思わせようとしていなくても、人から否定的な見方をされることを恐れて、精進していないと思われたくなかったのです。これは私利私欲のためであって、人のためにやっていることであり、真の修煉ではありませんでした。

 それとは別に、大学はそれほど厳しくないので、決まったスケジュールをこなす必要がありません。私は多くの時間を無駄にして、寝ていたり、ネットサーフィンをしていたりと、隠れていた安逸心が露呈してしまい、三つのことをひどく妨害し、他の面でも深刻な影響を与えてしまいました。例えば、宿題をつい最終日まで先延ばしにしてしまったり、掃除をほとんどしなかったり、などです。

 大学に行く前は、自分のスマートフォンもパソコンも持っておらず、せいぜい学校指定のパソコンを使っていた程度でした。今は、誰にも制限されることなく、いつでもどこでもインターネットであらゆるものを閲覧することができるようになり、あらゆるものが載っています。

 インターネットで動画を見るのも一度に長時間、何でも見てしまうし、脳にはどんどん常人のものが入ってきてしまいます。発正念学法煉功なども無意識に影響され、なかなか集中できない自分がいました。どんなに忙しい日でも、明らかにやり残したプロジェクトや宿題があるにもかかわらず、寝る前にスマホをチェックすることもよくありました。

 これらの心や行為は表面的で、問題を解決しようと思ったら、うわべだけのことではなく、問題の根本を直す必要があります。最初は、もっと学法し、正念を発すれば解決すると思っていたのですが、短時間しか良い状態が保てられませんでした。何らかの理由で発正念をしなかったり、学法の時間が減ったりした途端、どうにもならなくなったような気がします。また、どうしても法を学びたくないという念が出てきて、正念で否定しようにも、正念が出てこないので、どこに引っかかっているのかわからなかったのです。

 個人的な悟りでは、正念は学法という基礎に基づくもので、これらを打破する正念が湧いてこないのは、法を学んでいるのに法を得ていなかったからです。自分自身の内面を見つめ直した結果、学法量が足りないことに加え、他に二つの要因があることがわかりました。 一つは、常人の物を取り入れ過ぎて、学法するときに気が散ったり、完全に集中できなかったことです。

 もう一つは、私が法を学ぶ動機に関係しています。私が不純な考えや意図を持って法を学ぶと、神佛は私に法の内容を示してくれませんでした。

 なぜ学法するのかについて、皆さんはそれぞれの理解があると思います。例えば、法を学ぶことは修煉に不可欠で、法を学ぶことは師父が私たちにやらせた三つのことの一つであり、もしくは法を学ぶことは人を救うために修煉状態を維持する唯一の方法であるなどです。しかし、なぜ自分は法を学びたいのかと自問自答してみると、自分の出した答えはどれも杓子定規で表面的なことに過ぎません。実際には、自分がなぜ学法するのか、自分でもそれほど明確ではなかったのかもしれません。そこで私は、「なぜ私は修煉するのだろう?  私が修煉したい理由は何なのか?」と自分に問いました

 三、大法において真に修煉することを学ぶ

 子供の頃は、ただ親に従って形式的にやっていて、修煉というものを理解していませんでした。その後、常人社会に迷いを感じ、自分の現状を変えたいと思うようになって初めて、自ら純粋に修煉したいと思うようになりました。つまり、修煉をしようと思う根本的な理由は、実は変わっていないのです。あくまでも、その恩恵や精神的な昇華を得るためにやっていたのです。 私はただ、良い人間になり、自分の欠点を取り除いて、他人から嫌われずに受け入れてもらえるようにしたいだけなのです。私はただ人生の目標が欲しかっただけで、不純な心で大法を学ぼうとしたので、何も得ることができなかったのです。

 では、自分の根本的な修煉の目的が間違っているとわかったら、何を目的にすればいいのでしょうか? 例えば、修煉の目的は返本帰真することであり、師が法を正すのを助けて衆生を救うことである、というような標準回答を出すことはできます。しかし、自分の考えは簡単に変えようと思っても変えられるものではありません。自分が修煉したい根本的な目的はどうすれば変えられるのでしょうか。

 同い年の同修に相談したところ、彼もそのことに戸惑いを見せていました。そんなある日、法を学んでいて、ふと気がついたのです。修煉とは、無理に変化させて執着心を手放すことではなく、悪い心や思想業力や観念を強制的に排除することだけでもありません。内面を見つめた上で、問題の根源、本来の動機、他の執着の原因を見つけ、根本的な執着を手放すことです。修煉の別の動機を考えたり、それを無理に信じる必要はありません。それは偽りであるからです。ましてや100パーセント師父と法を信じるように強制することもできません。いわゆる模範解答を強制することはできません。それは真実ではないからです。私がすべきことは、現在の間違った修煉目的、自我への執着、他人が私をどう思うかへの執着を放下することです。

 今回内に向けて探したことを通して、私は自分が多くの問題を変えられず、執着を手放せなかった理由も分かりました。それは、私が内側から本当の意味で変化し、汚れたものを手放していなかったのです。ただ単に自分の間違った言動、振る舞い、考えをコントロールしようとしていただけで、表面的に自分を律しようとしていただけだったからです。私のいわゆる修煉は、自分自身に課した法を執行したのに過ぎなかったのではないでしょうか。 修煉とは、結果を求めることではなく、求めずとも得られることなのだと気づかされました。

 これだけ理解しても、修煉の三つのことを着実に行うには、まだまだ改善の余地がありすぎました。 法を学ぶとき、修煉できるときもあれば、できないときもあります。また、煉功と発正念においても、恥ずかしながら量的にも質的にも足りていません。時にはやっていても成果が出ず、あれこれ考えてしまい空想しているだけで結果の出ない時もありました。たまにプロジェクトをやっているとき正念を感じることもありますが、ほとんどは仕事、ルーティンをこなしているような感覚なのです。

 他にも、身の回りの衛生管理や生活習慣、無駄口をきかないなど、まだまだ気をつけるべきことはたくさんあります。またメンツの心、色欲心、仕事として行う心などなど、無くしていない執着心もたくさんあります。私の理解は限られており、今回伝えた内容はあくまで参考程度に留めてください。

 今後、これらの後天的な執着を取り除き、真の自分を邪魔しないように努力し、法において絶えず向上し、修煉において勇猛精進し、真の法を正す時期の大法弟子になれるようにしたいと思います。

 もし、上記の内容に不足があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 (完)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/4/26/459171.html)
 
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