傲慢と過度の自己満足は自滅につながりやすい
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2023年10月10日】修煉の過程で、一部の執着は比較的簡単に識別し、取り除くのが容易ですが、一部の執着は非常に深く隠れて、頑固で取り除きにくいのです。

 私自身に関して、「生意気、傲慢と自己満足」という心に対する認識は、非常に長い時間をかけて徐々に理解することができ、今では比較的明確になっています。師父の最近の新経文を学んで、このことについてより明確に考えることができました。以下は個人的な経験と深い教訓であり、同修の参考になれば幸いです。また指摘もお願いします。

 一、個人的な痛ましい教訓

 幼い頃から勉強ができ、褒められる環境で育ったので、無意識のうちに「人より優れていて自分を高く評価しすぎる」という心理が身についてしまい、いろいろなことを少し知っているだけで、自分はたくさん知っており、自分が偉いと思ってしまっていた。もし私が大法を修煉せず、多くの法理が分からず、様々な因縁関係を理解していなければ、傲慢な自分の人生の道はでこぼこで、一生嫌な思いをしていたでしょう。

 私は1999年以後に修煉を始めたのです。これは師父の慈悲のおかげです。法輪大法を修煉した後、私は自分があまりにも無知で、自分が修得したわずかな知識と技術があまりにも浅薄であることに気づきました。師父が説かれた法理は自分が今まで聞いたことがないもので、大法は私の人生におけるすべての迷いに答えて下さいました。

 師父は私を一気に引き上げて、たくさんのことを分からせて下さいました。私は大法の無辺の力に驚嘆するどころか、逆に自己満足し、自分を高く見すぎる心を強めました。私は修煉ができていないため謙虚さにかけており、物事が起こったときに自分自身を見ておらず、内に向けて探すことができなかったので、修煉の最初の頃2回続けて転びました

 最初に転んだとき、私は修煉の厳粛さを理解できず、修煉はとても辛いと感じ、常人の生活に執着していました。転ぶ前に、師父の悟らせは非常に明白でした。ある朝、出勤すると、オフィスビルでエントランス横の大きなガラスが割れて大きな穴が開き、周囲にガードのためのコーンが設置されていたのを目にしました。これを見て私は「これほど大きな穴があるのに、誰が大きな漏れを起こしているのだろうか?」と思いました。私は自分の内に向けて探しておらず、「このような大きなオフィスビルの中に、修煉者は私一人ではなく、私ほど修煉ができている人はいない、おそらく他の人を悟らせているのだ」と思いました。私は、その最も重要な部分を簡単に考え、通り抜けてしまいました。問題に遭遇したときに自分の内に向けて探すという教訓は、実に深刻で重いものです。

 二度目に転んだとき、表面的には真相を伝えたことで迫害され、良い仕事を失ったのですが、根本的な理由はやはり私の傲慢さに関係していました。

 私は大法を修煉し始めた当初、熱心に法を学び、自分が急速に進歩していると感じ、法を学ぶたびに法理が見えてきました。しかし、傲慢不遜だった私は、この宇宙の大法がどれほど洪大であるかを認識することができませんでした。しばらくしてから、『轉法輪』を読み終えるたびに、「これまでたくさんの法理を見てきたが、もう一度読んだときに新しい法理はまだあるのだろうか?」と思うようになりました。それほど傲慢で不敬な考えですが、当時は気づきませんでした。今考えるとおかしいと分かりますが、当時の私は傲慢な心に支配され、自分が低くてちっぽけであることに気づくことができませんでした。

 自我への執着のせいで、迫害や厳しい試練に直面すると、人間の考えが強すぎて大法の力を完全に信じることができず、自我を放下して師父に完全に任せることができませんでした。もし、そこまでやり遂げることができれば、仕事を失うことはなかったと思います。

 二、傲慢さは自身の向上と、人を救うことを妨げる

 ここ数年、多くの人心を取り除くことができず、各方面において向上が遅いのも、傲慢さや尊大であることと関係していることに気づきました。

 例えば嫉妬心ですが、私の個人的な理解では、嫉妬心には主に二つの状態が現れます: 一つは他人には良い事にあってほしくない (もう一つの現れは人の災難を喜ぶ)ということで、もう一つは他人を見下していることです。自分はこの執着を捨てようと努力しているのですが、いつもすっきりしないと感じます。同修は文章の中に、自分には良い事があったと書きましたが、読んでいる自分は時々、「著者の説明を見ると、これぐらいの修煉状態で、こんなに良い事があるのだろうか」と思うことがあります。常に他人と自分を比較するのは、習慣的な考え方になっているようです。

 ある日、私は突然、嫉妬心が傲慢さと関係していることに気づきました。傲慢さのせいで、他人は自分ほど修煉ができていないように感じ、なぜ他人には良いことがあり、自分にはないのかと疑問に思い、傲慢さのせいで自分の知恵は非常に限られており、他人の福報は前世で蓄積された徳で交換したものであることを知ることができません。自分を重く見すぎているため、同じく迫害されているのに、なぜ自分は他人より大きな苦難に遭ったのかと思い、心のバランスが取れず、それが自分の業力の重さのせいであるとは考えていませんでした。

 また、傲慢で生意気であるため、一切の衆生の苦しみを理解することができず、常に衆生の表面上での気にそぐわない行動を気にして、衆生を見下してしまいます。憐憫と慈悲の心を持っておらず、多くの場合、意図的または非意図的に思考の中で業力を作りました。すべての衆生は救われるために最も汚い三界に降りて、艱難辛苦を経験しましたが、私たちは彼らより幸運で、早く大法を修煉し始め、真相を理解しただけで、他人を見下す資格はありません。

 別の例として、自分が何人の人を救ったかを計算することもあります。この天功を貪る考えも傲慢さの表れです。人を救うということはとても大きなことですが、小さな私にそれができるでしょうか? それは師父がすべてを用意して、衆生を私の前に連れてきて、ただ私に話させてくださったからです。それは師父の慈悲深い救い済度であり、大法の無限の力と威徳の現われであり、重要なことはすべて師父がなさったことであり、真相を伝える時の私の知恵と能力も師父から与えられたものです。

 師父の慈悲深い加護がなければ、私は自分の命さえ守ることができないのに、どうやって人を救うことができますか? 毎回の真相を伝える機会は、その中で遭遇するさまざまな葛藤や錬魔も含め、師父が秩序正しく按排してくださったものであり、私たちに与えられた修煉の機会であり、神の功徳を貪るのではなく、大切にし、感謝しなければなりません。

 傲慢さや生意気はあらゆる面に反映されてしまうので、ここでは詳しく述べません。

 三、歴史上の正反の参照

 少し前に、私は明慧ネット2018年の記事「唐時代の二人の功臣の物語からの啓示」をもう一度読みました。李靖と侯君集は2人とも凌煙閣24人の英雄の1人です。李靖は唐の時代の有名な将軍で、あらゆる攻撃や戦いにおいて無敵でした。古来より功績を立て、品格があり、意見を広く発表できる名将である彼は、唐の太宗皇帝に「かつて私は、天皇陛下のお力を借りて、ささやかな貢献をしてきました」と謙虚に話したことがあります。それと反対に、侯君集は自分の功績を誇り、権力と富に貪欲でした。太宗の度重なる寛容さに直面しても、彼は太宗の恵みに応えられず、反乱を企てました。結局失敗して処刑され、その最期はとても悲しいものでした。大法弟子は歴史を鑑として、いかなる成果に対しても謙虚で敬意を持って臨み、創世主に対して常に限りない感謝と尊敬の念を持たなければなりません。

 個人的な理解ですが、傲慢、生意気、高ぶる、自惚れる、自己満足、独りよがり、他人に言われたくないなどの多くの心が、いったん発展してしまうと非常に恐ろしい結末になります。修煉者が強い主意識を持ってこれらの心を排斥し取り除くことができなければ、トラブルに遭遇したときに常に外に向けて責めたり不平を言ったりする場合、最終的には悪魔となり、修煉者自身を壊滅してしまうこともありますので、くれぐれも注意する必要があります。

 実際、師父はすでに伝統文化の中でその基礎を築いています。周易の六十四卦の中で、全て結果が「吉」は、「謙」しかありません。常に謙虚な心を持っている修煉者は、自分の問題点をよりよく認識し、速やかに修正し、心性を向上させることができ、修煉の道はよりスムーズに進みます。

 以上は私の個人的な理解ですので、不適切な点があればご指摘をお願いします。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/9/17/465361.html)
 
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