貪欲の心を分析
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文/中国の大法弟子・復一新  

 【明慧日本2023年11月9日】貪欲な心は、人心であり執着でもあり、修煉者は取り除かなければならないものです。しかし、私は20年以上修煉しており、自分には貪欲な心がなく、常に真・善・忍の法理に基づいて自分を律し、常人のなかの名、利、情も可能な限り放下してきたつもりでした。常人のなかの欲深さ、底なし沼のような貪欲さ、他人の手柄を横取りするような心など、自分にはそのような悪い考えは存在しないと思っていました。しかし、師父の「新経文」を学び、自分の言動と照らし合わせてみると、自分の修煉において、たくさんの貪欲な心があることに気づきました。今日はその悪い振る舞いを書き出して、明らかにするすと同時に、このような人心を持っている同修に注意喚起をしたいと思います。

 私は今までずっと田舎に住んでいたので、安いものをたくさん買うことができました。たとえば、農家が作った野菜は安くておいしいので1年でかなりのお金を節約できました。私が住んでいた地域のスーパーは毎週末、商品の一部を値下げして処分していたので、私は毎週買いに行っていました。このようにすれば毎年相当節約ができ、そのお金を大法のために使えると思っていました。自分の貪欲さを隠すための多くの理由を見つけることができました。

 今年になって大都市に住むようになると、ここの野菜の単価は以前の2倍以上で、イベント価格もなく、値引き交渉も値下げもありませんでした。この時、田舎で買い物をしていた時の光景を一つ一つ思い出し、自分の行動は完全に一種の「欲」ではないか、ということに気づきました。長年、それが「貪欲」だとは全く思ったこともありませんでした。そのため、その貪欲さを大きくしてしまい、安いものが買えないと気分がスッキリしませんでした。実際、貪欲という欲望は底なし沼のようなもので、決して満たされることはありません。加えてこの貪欲は悪魔がかけた魔術のようなもので、自分はコントロールすることができず、時間が経つと、完全に貪欲の虜になってしまうのです。

 さらに、貪欲は物質面において表れるだけでなく、精神面においても表れます。たとえば、自身が法を実証する事柄において口を開けば、自分がいかに順調に真相を伝えることができたか、どれほど多くの世の人々が救われたか、何枚(資料を)配布したか、何枚(資料を)貼ったかなどを言っています。このことを言っている時、師父を第一に置いていないということなのです。すべては師父がなさっているのです。自分は、ただ口と手足を動かしているだけだということに気づいていません。師父の段取りと加持がなければ、ちっぽけな私に何ができるのか。これこそ、他人の手柄を横取りしているのではないでしょうか? とても危険です。

 修煉者にとって貪欲な心は師父に不敬であり、法を信じていないことにもなります。そして、他人の手柄を横取りするような心が生じ、法を中傷し、私たちを済度してくださった師父に大口を叩いてしまいます。師父が経文で指摘された理性のない人、このような人は邪霊に操られている可能性があり、本人には分かっていません。そのため、大胆で向こう見ずなことをしたり、異常な状態が現れます。その心は旧宇宙の利己と一致しており、このような修煉者は千載一遇の修煉の機会を失い、歴史の反面教師になってしまいます。早く目を覚ましてください! これは師父が私たちにくださった最後の悔い改める機会です。必ずそれを掴み取らなければいけません! 

 修煉はまだ終わっていないということは、私たちにはまだ悔い改める機会があるということです。私は、「小さなことから、大法の基準に合わない私心を正していこう」と決心しました。今では野菜を買う時、落ちてしまった野菜の葉も買い、もう安いものを探さないようになりました。私は師父の教えである「何をしても人のことをまず考えるようにする」(『轉法輪』)に従って、本当に良い人、より良い人になります。

 法を実証するたびに、まず師父のご加持を思い出してから事を実践すると順調に進みます。私はもう過去のように、鼻を高くしてうぬぼれるという人心を生じさせません。

 正法はすでに最後まで来ており、こんなにも多くの人心や執着心が本来はあるべきではありません。しかし、自分にはまだ多くの人心があり、師父に面目ないです! これからは、一段と力を入れて法を学び、自分を修め、師父がしっかりやるようにとおっしゃった三つのことを行い、自分の誓約を果たします。

 個人的な少しばかりの経験です。間違っていたら、同修のご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/11/3/467720.html)
 
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