一人の聾啞者の法輪大法に対する固い信念
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年1月1日】正法修煉の20年余りの間に、大法弟子は師父のご指導の下で、自分の修煉と衆生の救済の中で感動的な物語と奇跡を残しました。そして、修煉していない大法弟子の家族の中にも、すばらしい正念を持って行う人がたくさんいます。ここで聾啞者の秀さんについて話をします。

  大法修煉者の琴さん(仮名)には、息子と娘の2人の子供がいて、いずれも結婚して子どももいます。娘の秀さん(仮名)は、幼い頃、病院で打たれたネオマイシンの過度の注射で身体に障害を起こし、聾啞者になってしまいました。修煉してから、琴さんは真・善・忍の法理で子供を良い人になるように教えました。

 秀さんは母の話をよく聞き、大法のお守りを毎日身につけて、師父の教えの通りにしています。義理の両親にも親孝行し、夫にも思いやりを持って接し、自分の親にも気を配っています。毎年お正月には、必ず双方の両親にそれぞれ贈り物を買ってあげ、普段も双方の家事を手伝い、4人の老人に心を配り世話をします。舅はいつも「うちの嫁は、話せないことを除けば、100人中一番の宝の嫁だ」と褒めます。

 生計を立てるため、秀さんは同じく聾啞者である夫と一緒によその町の市場で、小さな湯葉の軽食店を営んでいます。彼女が作った湯葉は清潔でおいしく、安いので、常連客が多くいます。秀さんは商売をする過程で、欲張らず、客が多く払ったお金は全部返すなど、良い人になることを心掛けていました。ある時、若者が、勤勉でやさしい秀さんが商売で苦労しているのを見て、ミルクティーをプレゼントしました。その場で断るのは難しいので受け取るしかありませんでしたが、秀さんは「失わなければ得られず」という大法の教えが分かっていました。どうすればいいかと母に聞くと、お母さんは「今度また湯葉を買いに来た時に、多めにあげましょう」と言いました。

 秀さんは地元に帰るといつも果物を買ってきては、師父にお供えし、線香を立てて、師父を敬います。

 母親を救助する

 琴さんは10年前から自宅で、法輪功迫害の実態を伝える資料を作る資料拠点を建てました。秀さんはそれを全力で守っています。同修が来ると、彼女はいつも親切に送り迎えなどをしてあげて、文句を言ったことはありませんでした。ある日、秀さんの夫は大法に抵抗があり、包丁を持って大法の本を破壊しようとしましたが、秀さんは必死に本を守り、引き下がりませんでした。

 2010年10月、琴さんは一部の同修と一緒に中国共産党(以下、中共)に連行され、不当に市の留置場に監禁されました。

 秀さんは母が連行された日から毎日、派出所や公安支局に行って解放を訴えました。手話とか手紙で警官に「私の母は良い人です。私が幼い頃からリウマチで苦しんでいた母は、毎日たくさんの薬を飲み、しょっちゅう病院に行き、いつも暗い顔をしていて、父とも喧嘩が絶えず、家庭には温かみがありませんでした。1994年、母は法輪功を修煉してから、まるで別人のようになり、薬を飲んだこともなく、性格も優しくなり、喧嘩もしなくなり、いつも笑顔でした。母を家に帰らせてください!」と、泣きながら訴えました。その泣き声が大きく、公安支局のビル全体に聞こえました。月曜日から金曜日まで秀さんは毎日行き、毎日泣き続きました。

 数日もしないうちに、秀さんは風邪をひいてしまいました。彼女は午前中に点滴を受けた後、午後はそのまま公安支局に行って母の解放を訴えました。彼女は警官に点滴した針の跡を見せて、自分が熱を出して風邪を引き、点滴が終わってから母の解放を呼びかけに来たと伝え、「お母さんを返して欲しい!」と、大きく書いた紙を掲げて泣き始めました。

 泣き止まない秀さんに警官らも仕方がなく、一部の良心のある警官は彼女に同情し、「あの聾啞者の娘さんがまた来ましたね。このような人の親を監禁して何をしますか? 釈放してもいいと思いますが」と不満を言う人もいました。

 秀さんは聾啞者ですが、人の表情と口型を観察して、相手の話す内容を判断することができます。20日後、秀さんは再び公安支局に来て、泣きながら母の解放を求めました。警官らの口型から母を釈放する意味が分かり、義姉に明日の朝、彼女と一緒に支局に母を迎えに行こうと言いました。

 秀さんは毎日、母の解放を訴えに行く前に、必ず線香を立てて師父にお願いしました。この日も、彼女は師父に線香を立てた後、義姉と一緒に公安支局に行きました。案の定、公安支局に着くと、警官は私たちを留置所まで連れて行ってくれて、母を迎えました。

 琴さんが留置所から出ると、秀さんは急いで母に抱きついて泣きました。それから彼女は、母の体に傷がないかどうかを見ます。母は、誰も自分を殴っていないと言うと、秀さんはそれで安心しました。そばで見ていた警官もとても同情してくれました。

 琴さんは、留置所の中にいた時、絶えず発正念をして、内に向けて探すとともに師父に助けをお願いしました。それと同時に、聾唖の娘は留置所の外で、懸命に救助しました。28日後、師父のご加護の下、琴さんは留置所を出ることができました。

 娘を救助する

 2017年、琴さんは再び中共の警察に連行されました。秀さんの娘は、おばあちゃんを救助するために、いろいろな方法で迫害を実施した人に法輪大法の素晴らしさと法輪功迫害の実態を伝えました。その結果、秀さんの娘さんも連行され、不法監禁されました。

 それを聞いた秀さんは、すぐに地元に駆けつけました。当時、母に対して懲役4年の不当判決が下されました。70歳代の父は、十数年前に脳血栓になり、今、孫娘まで警察に連れて行かれたのを見て、一気に血圧が高くなりました。兄は出稼ぎで家にいませんし、義姉も母親が亡くなったばかりで動けません。秀さんにとって天が崩れたような感じで、心が折れそうでした。それでも彼女は父親の世話をしながら、監禁中の母と娘を助けに行き、疲れて心身ともに憔悴していました。

 琴さんがまだ救出されない時に、孫娘まで連行されて監禁されたことに、救助に当たった同修たちも「ボトルネック」(限界)を感じました。

 ある夜、4人の同修がある同修の家で一緒に救出のことを考えていた時、一人の同修は「今私たちができるのは発正念です。発正念を続けるべきです」。彼は一例を挙げました。数年前、ある同修が拉致された時に、彼を救出する家族はいませんでした。同修たちが長時間発正念をした結果、数日後に同修が解放されました。

 その話を聞き、同修たちは自信を深め、今日から、4人は毎晩8時から8時30分まで発正念をすることにしました。ちょうど夜8時だったので、皆はすぐに足を組んで発正念をしました。

 約2分後、突然、ドアをノックする音がして、同修たちは皆、警戒しました。ドアを開けて見ると、秀さんでした。

 秀さんは部屋に入ると、手話で「父は血圧が高くて起きられないし、兄は出稼ぎから帰れません。義姉も元気がなくて頼ることができません。母と娘を救出しなければなりませんが、どうしたらいいですか? 助けてください」と言いました。秀さんは肝心な時、常人に助けを求めるのではなく、同修の私たちを信頼してくれました。秀さんの娘さんが連行された時、家で多くの法輪功への迫害資料を見つけられましたが、秀さんは同修に一言も文句を言わずに、「師父に助けをお願いしました」と言いました。

 自分の母と娘が共に迫害を受けている中で、秀さんは師父を信じ、大法を信じ、同修を頼って難関を乗り越えようとしています。秀さんの大法に対する固い信念に、同修はみな感心しました。

 同修はすぐに秀さんと話し合い、関係部門の主要責任者に手紙を書き、大法の素晴らしさと迫害の実態を伝えて、彼らを救うことにしました。同修はすぐにパソコンを開いて手紙を作成し、皆が一緒に内容を検討し納得したうえで、最後に秀さんは書き写して完成させました。

 手紙の中で、「私たち夫婦はともに聾啞者なので、娘が生まれてから両親が面倒を見てくれました」 「娘はおじいちゃんとおばあちゃんと、とても絆が深いです。おばあちゃんが監禁された後、娘は魂を失ったように苦しみ、食事もできず、夜眠ることもできませんでした」「母は以前、深刻なリウマチで手足が変形していた状態でしたが、娘の面倒を見てくれてありがたいです。その後、母は法輪功の修煉を始めてから病気が治り、性格も良くなりました。当時は国も修煉することに反対せず、テレビでは法輪功を称賛していました。母は修煉した後、いつも私に義理の両親に孝行するように教えてくれました」などと書かれました。

 手紙を書き終わると、すでに夜中の12時になりました。翌日の朝、秀さんは郵便局に行って実名で郵送しました。

 数日後、秀さんの娘は無条件に釈放されました。もちろん1円もお金がかかりませんでした。娘を解放した時、迫害に加担した主な責任者は秀さんに「どうやって私の名前を知って、手紙を送ったのですか?」と尋ねましたが、秀さんは巧みに答えました。

 今、琴さんはもう冤罪を終えて家に帰り、大法の素晴らしさと迫害の実態を伝え続け、人々を救っています。秀さんの父親も容体が安定しています。秀さんは依然としてよその町で軽食店を営んでいて、商売は順調です。一家はみな法輪大法に信念(正念)を持っています。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/12/27/465654.html)
 
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