文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年4月27日】ある日、同修たちとの交流のとき、ある同修は自分自身の根本的な執着は「安逸心」だと探し出したことを話しました。同修は、「自分に快適な『ゾーン』をつくっていました。この『ゾーン』においては、自分が若々しくて、健康で、衣食住に恵まれるだけでなく、自ら考えている自分なりの仕事や生活、修煉をし、快適なことを求めていました。誰かに私の「ゾーン」に触れられると、すぐにかっとなり、イライラし、怒りが収まらず、叫び声を上げたり、あらゆる魔性が爆発するのは、私の根本的な『安逸心』に触れられたからだと思います」と話しました。
同修の話を聞いて、私は愕然としました。というのは、「安逸心」に関して、私は自分の内に向けてきちんと探したことがなく、同修が挙げたような状況をすべて私自身も持っているだけでなく、しかも、各方面に現れているからです。例えば、長期にわたる法を暗記するという目標と期間を明確に立てたのに、暗記しなかったり、少なくしたり、あるいは師父の各地での説法を勉強することに置き換えたりすることがよくありました。その理由は、各地での説法を学ぶほうが容易で、苦痛が少ないと感じるからです。静功のとき、1時間座禅ができるのに、足が少し痛むと下ろしてしまいました。集団学法の時、たいていは片盤やあぐらにしいたのです。同修に念を押されると、しばらく双盤するのですが、少し痛くなると足を下ろしました。自分に厳しく要求できなかったのです。朝の煉功にも、時には遅く起きると、5式の功法を全部煉ることができなくなったとしても、後で補おうとしなかったりしました。困難な状況に遭遇すると、恐れてしまい、やりたくなかったり、だらだらとやったりしていました。トラブルに直面したくなかったからです。とにかく、安逸を求めていました。その常人の心が、「快適は良いことだ」と思っているからです。
妻(同修)は、私の「安逸心」が重すぎると見て、私と交流しました。妻は「苦を嘗めることができない人は黒い物質が多い。修煉者が精進することを妨げるものは業力なのだ。あなたが本当に苦を嘗めたら、あなたの業力が死ぬのだから。苦を嘗めることは良いことだわ。他の空間の生命が修煉をしたくても、人間の体がないから、苦を嘗めることができない。向上することもできない。私たちは、この苦を嘗めて修煉ができる機会を大切にすべきだ」と話しました。
確かにそうです。常人は快適な生活が良いことだと思っています。常人なら、非常に快適な体験をしたときに、「死ぬほど気持ちいい」とよく嬉しそうに言うのです。しかし、修煉者にとっては、本当に快適で、病気も苦しみもなければ、自分自身を高めることもできず、返本帰真もできず、ただ人として永遠にこの世にいることしかできません。人間になれない場合もあります。しかし、高次元から見れば、この人は元は神ですが、決して戻ることができなくなります。言い換えれば、それは「死ぬ」ことではないのでしょうか? まさに「死ぬほど気持ちいい」となるのです!
考えれば考えるほど、こんなに深刻な執着心を持っているのに、あまり気にしていなかったことにショックを受けました。そこで、「安逸をむさぼらずに、自分の誓約を果たさなければならない。師父について本当の家に帰りたい!」と、再認識し、考え方を変えました。それから、苦を嘗めることに直面しても、恐れることがなくなり、困難なことに直面しても、以前のように焦りや無力感を感じなくなりました。今、私は早起きし、眠気を払い、すぐに煉功を始め、座禅するとき痛みがあっても足を下ろさないようにしています。妻が私を邪魔したとき、私は怒りを持たず、嫌な気持ちもなくなりました。法を暗記することも、避けたり逃げたりする癖が直りました。
この「苦」に真正面から向き合い、一歩一歩超越したとき、私は心の底から喜びを感じました。私は、この安逸を求める根本的な執着をなくし、時間を無駄にせず、自分の誓いを果たすよう、精進すると決意しました。
以上、現在にいる次元での認識ですが、法に則っていない点があれば、同修にご指摘いただきたいと思います。