文/湖南省の大法弟子・松家
【明慧日本2024年4月15日】私は70代で定年退職しました。法輪大法を修煉して20年以上続けている大法弟子なのですが、いつも終わりのない病業を抱えていると感じていました。命の危険な状況に何度も陥りましたが、その都度、師父に見守られながら乗り切ることができました。私はこのような状況が頻繁に起こることに、落ち込んだり、自分を責めたりしていました。
最近、学法を通じて私がこのような状態に悩まされているのは、「修めることがまだできていないからだ! 本当に修煉すること、確実に修煉することをしていないからだ!」と認識しました。そして、「『心性』を向上させることができていない!」と気づきました。
師父は『轉法輪』で、「心性が高まってくると、身体にも大きな変化が起こります。心性が高まってくると、身体を構成している物質も間違いなく変化が起こります」と説かれました。
私は落ち着いて学法し、法で自分の言動を照らしてみました。「心性の面に努力を傾けば、この状態から抜け出せる」と理解しました。
修煉を始めてから、修煉とは内に向けて探し、執着を捨てることだとわかっていながらも、自分に厳しく要求していないため、修煉者の最良の状態に到達できないことが多くありました。
私は、いつも常人の執着や、欲望に振り回されていたのです。大法に照らしてそれらを排斥したり、反対したり、抑圧したりしていませんでした。私は大法に則って修煉することができておらず、あらゆる執着が何度も何度も湧き上がりました。しかし、徹底的に取り除くことができず、言い訳を作って誤魔化していたのでした。そのため、自分の行動に不安や罪悪感を感じており、後悔することがよくありました。
最近、内に向けて探してみて、食べ物や衣服への執着の背後には、非常に汚い「色欲心」と「安逸心」が働いていることがわかりました。色欲心と安逸心のような物質を完全に取り除いてこそ、根本的な問題が解決できるのです。それと党文化の影響を受けてきたため、「言ったことを必ず守る。承諾したことを必ず果たす」がよくできていませんでした。ダラダラすることで相手に多くの迷惑をかけ、誤解を生んだり、傷つけたりすることがあり、全体の協調にも影響を及ぼしていました。これらはすべて、私が大法の修煉で正さなければならないことです。
学法を通して、私はさらに気づきました。「どんな心も物質的な存在であり、その中には何百年も何千年もかけて形成された観念がある。内に向けて探さなければならない、それらを否定しなければならない、心性の向上をしなければ、それらの物質は決してなくならない!」
問題に遭遇したとき、私は内に向けて浅く探すだけでした。そのため、自分には恐怖心、歓喜心、顕示心などの執着心があることを認識しましたが、それらを修めて取り除くことができていませんでした。しばらくすると、また同じような問題が生じ、同じような執着心が露呈したのでした。このような状態に対して、多くの同修はこのように理解しています。「修煉とは一層一層を突破することであり、この層でこの心を修めることができても、また別の層で同じような心が出てくる」と。
もちろん、そのようなことがあると否定できませんが、自問しなければならないのは、「私たちは内に向けて探したけど、見つけたこれらの物質を取り除いたのか?」ということです。
すべての執着心は物質的なものです。恐怖心を例にしますと、恐れの物質が存在している場合、強制的に自分を恐れないようにしようとしてもできないのです。内に向けて探し、心性を高めることができれば、師父がその物質を取り除いて下さるのです。すると、自然に恐怖心がなくなります。これは修煉の中のすべての執着心にも当てはまります。羅漢の次元に達すると、叩かれたり叱られたりしても、羅漢はまったく動じないのです。常人の目には、この人がよく耐えているように見えますが、実はその次元に達しているからです。
「内に向けて深く探す」ということは、自分の体に溶け込んだその物質を切り落とすことに相当します。もちろん苦しいと感じますが、ただ無条件に内に向けて探しても、法の上でこれらの物質は自分のものではないことがはっきりとわかるのです。これらの悪いものと、自分との区別ができれば、これらの黒い物質を取り除くことができます。一部の同修は、内に向けて探す時、これらの悪い物質はすべて自分のものだと考えてしまうのです。例えば、「自分には恐怖心がある、自分には歓喜心がある、自分には顕示心がある、あれこれの執着心がある」と、心の奥底で「これらの悪いものは自分のものだ」と思い続けていると、師父はこれらの執着心を取り除いてくださることができないのです。
師父は『ヨーロッパ法会での説法』で、「私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらず、あなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もし、このことがあなたと絶対に関係なく、あなたが取り除くべき心を持っていなければ、このことがあなたの周囲に発生することはめったにありません。もし、あなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。トラブルがあなたの身に、あなたの周辺、あなた達の間に現れれば、恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきものがあるはずです。あなたのせいであるかどうかは関係なく、私の法身はあなたの心を取り除く際、このことがあなたのせいであるか、または彼のせいであるか問わないのです。あなたにこの心がありさえすれば、あらゆる方法を尽くして、いざこざに遭わせ、まだ取り除かれていない心を認識させます。しかし、あなた達はそこでまだ『これは私のせいではない』と言い合い、或いは『私は法を守っている』と思い、彼も『私も法を守っている』と思っているのです。実は恐らく両方とも正しくないところがあったからこそ、いざこざが起きたのです」と説かれました。
しかし、実践の中で何か起きると、習慣的に外部の原因を探すことになります。「これは違う。あれは理に適っていない」とか、自分だけが正しいと思ってしまいます。
あるとき、私はある同修と一緒に大法の仕事をしていたとき、どうも同修が安全の面に注意していないと感じ、「同修に自分の要求通りするように」と求めましたが、同修を怒らせてしまいました。
同修はこう言いました。「あなたには勝てないよ。あなたはいつも自分が正しいと思っているから」。それを聞いて私はショックを受けました。よくよく考えてみると、「確かにそうだった」と気づき、驚きました。私は師父の「内に向けて探す」の法理を常に口にしてきました。同修と交流するときも内に向けて探す必要性をよく口にしていたのです。しかし、心の奥では同修に内に向けて探させ、法理を持って同修を照らしていたのでした。私自身は内に向けて探さず、外に向けていたのでした。私の言葉には力がなく、同修もそれを受け入れなかったのだと思いました。そのため、時間が経つにつれて、自分自身を見ず、徐々に自分の空間場が不純になり、周囲の環境と調和できず、客観的にも悪いものの侵入の機会を提供したのでした。
法を正すことと、自分自身を正すことは不可決です。人体は小さな宇宙であり、常に内に向けて探すことで、変異した物質をすべて取り除くことができ、大法の中で自分を正し、最終的に正法の道を歩むことができるのだと思います。
同修の皆さん、一緒に頑張りましょう!
師父、ありがとうございます!
同修の皆さん、ありがとうございます!
合掌!