ーー内に向けて探すことについての気づき
文/米国の大法弟子
【明慧日本2024年8月14日】私は法輪大法を20年以上修煉してきました。三つのことをしっかり行い、法を学び、煉功することを続けてきましたが、心性の向上がとても遅いと感じています。最近、法を学ぶことを強化して、自分の内に向けて修煉することに問題があると気付きました。法から学んだこととして、大法の修煉者は必ず内に向けて探し、すべての人心や執着心を取り除かなければならないということです。この点を達成するためには、法をしっかり学び、いつでもどこでも法の異なる次元の基準に自分を照らして要求しなければなりません。そうしないと、自分の中の法に合わない人心、観念、執着心を見ることができず、それらを取り除くことができず、内に向けて探すことが口先だけで、表面的になり、心性が向上できません。
以下に、最近の修煉で内に向けてさがすことについての体験と得たことについてお話しします。
一、内に向けて探すことを妨げる人心、観念、執着、およびその表れを見つける
1、内に向けて探すことは形式的になる
時々、自分の執着心を見つけたと思ったり、この心があると思ったりして、自分は内に向けて探したと思い込むことがあります。しかし、それらの心が生じる思想の根源を深く掘り下げることはせず、浅く、表面的にしか見つけていません。また、内に向けて探しているうちに、それを他人に押し付けることがあります。この事は確かに私のせいではないと思います(強調しているのは常人社会の理です)。しかし、私は彼と争うことはできません。私は彼を受け入れ、自分を修めなければなりません。無意識に他人を見下し、高慢な心を持って他人を「受け入れ」、自分が内に向けて探せると思い込んでいます。
2、多くの場合、法の学びと修煉を結びつけることができない
普段、法を学びながらいくつかの法理を悟り、交流で同修に認められると、自分はしっかり修煉していると思い、かなりうまくいっていると感じます。
3、大法のプロジェクトの仕事をすることを修煉と勘違いすること
大法を実証するプロジェクトを多く行ったり、あるいはある分野で同修からの肯定を得たりすると、自分が修煉がうまくいっていると思い込み、それが内に目向けて探すことに影響します。
内に向けるのを妨げる人心は他にもたくさんあります。例えば、自我への執着、嫉妬心、安逸を追求する心、苦難に耐えられない心、不公平や不満などです。それぞれの人心が修煉の向上を妨げる壁となります。
二、無条件で自分の内に向けて探し、本質的に自分を変える
法から私は次のことを理解しました。修煉者が自分の内に向けて、執着を探すことができなければ、本当の修煉者ではありません。修煉においては、人間の執着をすべて捨てて初めて、人間世界から抜け出し、神への道を歩むことができます。内に向けるのは法の要求に従って人心を自ら進んで取り除く過程であり、それは積極的に大法に同化することです。これは宇宙で最も厳粛で殊勝なことです。
自分自身が大法修煉の厳粛さを明確に認識しておらず、真に法を学ぶことができず、修煉の機会を大切にしていなかったことに気づきました。それからは自分に厳しく要求することを決意しました。
1.多く法を学び、よく法を学び、あらゆること、あらゆる念を法で測る
自分の思考や一念を見逃さず、起心動念(心を起こし、思いを動かすこと)から内に向けて探します。例えば、「なぜ私は動揺するのか? なぜ私は怒るのか? 私が傷つけられたからか? 何に傷つけられたのか? 他人から見下されたからか? なぜ見下されてはいけないのか?」さらに深く探し、背後にある私心や様々な私利私欲、情、観念、執着を見つけ出し、修煉で取り除いていきます。
2.無条件で内に向けて探し、より高い基準で自分に要求する
私はある問題を乗り越えるのに非常に苦労しました。事前に師父が私に前世の怨念があり、業を返さなければならないと教えて下さいました。最初は業を消し、借りを返すことは良いことだと思い、我慢すれば過ぎ去ると思いました。しかし、実際はそう簡単ではなく、その関を乗り越えるのがますます難しく、どう頑張っても良い結果が出せず、終わりが見えませんでした。相手の行動を人間の視点から見ると、「理屈で納得させることができない」としか思えませんが、修煉の視点から見ると、天に昇り道を敷いてくれています。正念が強いときは、その問題を乗り越えられ、耐えられると思いますが、少しでも人心が出てくると非常に苦しく、耐え難いと感じます。何度も「耐える」決心をしましたが、時間が長くなると耐えられなくなります。いつまで耐えればいいのかと思いました(実際には私は本当の「忍」ができていなかったのです)。後に、すべての人心を放下することで、この関門を乗り越えられることに気づきましたが、それは非常に難しいことでした。正念が出たときは一時的に放下できますが、すぐに人心が再び出てきて、また耐えられなくなります。そうして何度も何度も我慢していましたが、最後に耐えられなくなり、怨恨の心が生まれ、さらに耐え難くなりました。
でも私はまだちゃんと修煉したいと思っています。 師父が私を助けて下さいました。ある日、ミラレパ仏もとても辛い道を歩んできたことを突然思い出しました。ミラレパ仏は師父の要求に従い、次々と四つの山で家を建て、それをまた壊すように何度も要求され、石を別の山に運ぶように言われ、背中が石で擦れて血まみれになり、いつも疲れ果てていました。数年にわたる試練の中で、もしミラレパ仏が師父に少しでも恨みの気持ちを持っていたら、彼は業を消すことができず、修行を成し遂げることができませんでした。私が苦労することがあっても、当時のミラレパほどの苦労ではないでしょう。私は彼ほどの苦労に対する耐性を持っていないだけでなく、もっと重要なのは、師と法への信頼、修煉の揺るぎない意志がなく、彼には及ばないということです。
師父は説かれました。「真に大法を修し 唯此れだけを大と為す 大法に同化し 他年必ずや成る」(『洪吟』得法)。 私は修煉を第一に置いていませんでしたし、修煉を最後まで行うという決意もありませんでした。修煉に対する堅固な意志も欠けていました。この問題は、師父が旧勢力の計略を逆用し、この関を按排してくださったことを悟りました。もしこれが師父の按排であるならば、私は相手に対する恨みを持つのではなく、師父の按排を恨んでいることになります。それは「大きな忍の心」(『轉法輪』)の状態ではなく、私に「忍の心」がないことです。
この時、恨みの物質は瞬時に消え去り、心の中に善の念が生まれました。師父の慈悲深い済度に感謝します。
この出来事を通して、私は内に向かって探すことは無条件でなければならないと認識しました。どんな状況においても、恨みの心を持ってはならず、どんな場合でも師と法を信じる正しい念を揺るがせてはならないのです。
以上は、私の最近の修煉における体験と認識です。本当の向上は、今後の修煉の中でしっかりと行って初めて達成できるものです。
不適切なところがあれば、同修の皆様の慈悲深いご指摘をお願いします。