文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年9月11日】慈悲なる師父、こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。
私は今年64歳になり、1998年に修煉を始めました。当時、大法の書籍は非常に不足していて、師父の海外での説法の本を2冊しか読んだことはなく、煉功の動作だけをやっていました。1999年の春、何度かの転売を経た師父の天書『転法輪』をようやく手に入れることができ、まるで宝をもらったようでした。私は止めることができず、一気に全部読んで、何世生まれ変わってもずっと追求してきた「家に帰る道」を発見しました。この10数年来、私は法を師父として、慈悲なる師父のご加護で、さまざまな試練と拷問を経て、師父を助けて法を証実し、迫害を反対して人々を救い済度する中で、着実に今日まで歩いてきました。以下に私の幾つかの修煉体験を話させていただきます。
一、心の中に法があり、師父の助けによって関門を突破する
1999年の春、私が数回『転法輪』を拝読したばかりの頃でしたが、邪悪は法輪功を弾圧し始めたため、どうしたらいいのか分からず、同修に聞きました。同修は私に「師父は“法を師とする”という法理をおっしゃったことがあります」と言いました。この文により、私は修煉する決意が固くなりました。
1999年「4.25」の後に、私は同修と一緒に北京へ請願に行き、途中で不法に連行され、郷の政府機関に15日間拘留されました。年末にまた県の留置場に7日間拘留され、この2回のことは、全て師父と法を信じて邪悪に従わなかったため歩いてこられました。特に2000年の年末、同修たちは迫害に反対するため北京に請願し、私は妻(同修)と一緒に4歳の孫を連れて天安門へ法を証実しに行きました。不法に連行され拘留された過程の中で、私は心の中に雑念がなく、ただ師父のために正義を戦い、大法の素晴らしさを実証したいという考えしかありませんでした。その前後の過程は全て恩師の加持により、順調に実家に帰ることができました。しかし、翌日朝ごはんを食べた後に、邪悪は再び私を公安局に連れていき、北京に行くかどうかを審問しました。その途端、頭に一つ考えが出てきました「やはり北京に請願に行ったことを迫害する言い訳としていたのだ」。私はすぐに「私は家から連行されたのです」と返事しました。それからは何を聞かれても、私は「分かりません」と返事しました。私は十数年の教師と校長を担当した経験から、公安局はいわゆる“自白した者は寛大に処置する”と言っていますが、法輪功修煉者に対しては、かえって“自白した者は厳重に処分する”ということがわかっていました。ですから、私は何も分かりませんと返事しました。
警官らによる審問は失敗し、私は留置場に拘禁されました。12月24日の朝8時に、彼らは私ともう一人の女性の同修を尋問し、無理やりに以下の罪を言い渡しました。一、学員を集めて、法会を行ったこと。二、師父の経文と真相のチラシを配ったこと。三、学員を励まして北京へ請願に行ったことでした。警察は私が有罪を認めないのを見て、とても怒りだし、5人の警官を呼んで私の手に手錠を掛けようとしました。2人が私の右手を掴んで、2人が私の左手を引っ張って、1人は手錠を掛けようとしました。その時、私は心の中で、恩師が『転法輪』の中でおっしゃった「いかなる佛、いかなる道、いかなる神、いかなる魔に対しても、心が動じることがなければ、必ず成功するに違いありません」しか考えていませんでした。信じられないことに、その力強い5人の警官はなんとおかしくなり、どうしても手錠を掛けられませんでした。かえってそれは私が力を入れたせいだと罵りました。私は楽な手を見せて「力を入れていませんよ」と言いましたが、警官はまた私の着ている服が厚すぎるのだと思って、数件の服を全部脱がせました。秋服が一着だけ残りました。再び、5人が精一杯の力を使ってもやはり手錠は掛けられませんでした。
その時、邪悪はまるで気体を失った気球のように、どうしようもなくなりました。彼らはまた、私をロープで縛って、棒を使ってきつくロープを縛りました。この間。私は殴られてから尋問され、尋問されてからまた殴られて、邪悪は全ての方法を使い尽くしました。しかし前述の三つの罪に対して、私は一切「ありません」や「分かりません」と返事しました。あるいは、私は警官に「嘘をついてほしいのですか」と問い返しました。警官は「違います」と言いました。そのため、私は何も言いませんでした。また、私は彼らに「私は外地で功法を学んだので、地元の学員は一人も知りませんでした」と話しました。警官はどうしようもなくなり、「あなたたち法輪功の人はあなたのことを自白したのに、あなたはまだ認めないなんて、本当に強情だな」と言いました。
邪悪は全ての方法を使い尽くし、私に綿布の服を着させず、私をビルの後ろにあるプラタナスの木に手錠で縛りつけました。邪悪はアメとムチの手法を使い、同じ故郷の警官を呼んで私に水を飲ませて、正直に話すよう勧めました。しかし、私は全て断りました。昼は食事を食べられず、夜は二つのまんじゅうでした。まだ食べ終わっていない時に、ある子供が「法輪功の人が家族住宅へ逃げていたよ」と叫びました。警官は皆混乱して外に走って行き、同修を手錠で掛け、連行して返って来ました。同修の顔をひどく殴りながら、邪悪は先述の三つの罪により、私を罵りました。警察の劉は私に「お前は彼女を知らないって言ったのに、彼女はお前のことを告白したよ」と話しました。私は胸を張って「それは彼女を責め立てて自白させたからです。あなたがもし彼女を殴り続けたら、彼女に江XXを自白させることもできます」と答えました。明らかに警官は私のこの話にショックを受けて、がっかりして、同修を殴ることを止めました。そしてまた私を木に縛りつけて、逃げられることを心配したため、私を監視しました。その時、雪が降ったばかりだったので、あまりにも寒くて、厚い服を着ていなかったため、手錠を外したとき手が動かなくなりました。夜明けになってから、警官の劉は「お前ら法輪功は大したものだね。私たち6人が一晩中お前を監視したのだ」と言いました。私は異議を唱えて「それはあなたが自分で求めたのだから、私だってこうしたくないのだよ」と言いました。彼は「それじゃ私が尋問の記録をしてあげよう。私が聞いて、あなたは答えます。あなたが言った内容を書きますから」と言いました。彼のいわゆる三つのことに、私は一切答えなかったため、邪悪はそれをいい加減に終わらせました。
その一昼夜の厳しい拷問は、普通の常人なら耐えられないと思いました。当時の私はどうして耐えられたのでしょうか。邪悪に殴られ、拷問された時に、私は心の中で師父の詩『洪吟』の中の「大法身を離れずして 神鬼は十分懼れる 心に真善忍存す 世間の大羅漢」を絶えず暗誦しました。素晴らしいことに、その時はつらい感じや痛みを本当にあまり感じませんでした。その時私は、すぐに師父が私の側にいるのが分かりました。師父は弟子のために耐えてくださいました。ですから、私は目から熱い涙がずっと流れていると感じながら、この一昼夜の困難を乗り越えられました。その年、私は53歳でした。2000年12月24日、この日は永久に忘れられない日となりました。それは恩師が私を助けて、苦難を乗り越えられた素晴らしい日でした。
(続く)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)