文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年9月27日】最近、地元の協調人と一緒に、ある夫婦の同修の家に行って学法と交流をしました。この夫婦は長期にわたって仲が悪く、2人とも精進している状態ではありませんでした。数日間の学法と交流を経て、この夫婦の修煉状態はよくなり、内に向けて探すようになり、法の上で向上しました。今回の学法と交流の過程で悟った体験を同修と分かち合いたいと思います。
この夫婦はお互いに相手のことを配慮せず、互いに相手の欠点ばかり探していました。ちょっとしたことでも言い争いをし、家事のことでも争いました。同修の不足を見て、私は自分自身を見てみました。私も家では修煉者らしくありません。息子は修煉者といってもあいまいな状態で、私は息子のため非常に焦っていました。私はいつも指摘をしました。息子は法に則っておらず、仕事をしようとせず家で遊んでばかりいました。私は学法、煉功、真相を伝えるほかに家事もあり、毎日忙しい中で息子の面倒も見なければならないと恨む心がありました。そのため、家庭の環境をよく処理できず、修煉状態には波がありました。
この夫婦の不足を見て、私の家庭環境も自分の向上のためではないかと思いました。外で真相を伝えるとき、善良な心で、丁寧に行わないと世の人々が耳を貸してくれるはずがありません。真相を伝えるとき、相手が聞きたがらなくても、辛抱強く善良な態度で相手に話し、しかも相手の執着を考慮して話さなければなりません。また相手の魔性を刺激しないように注意し、自分の態度がちょっとでも悪く、善の心が足りないと人を救うことはできません。その常人の魔性をかきたてると、その人はおしまいになるのではありませんか。常人に対しては厳しく自分を律することができますが、なぜ自分の家族に対してそのようにできないのでしょうか。自分の夫、息子には何かをしてもらおうとするのに、自分は何もしようとしません。これは自分を修めることでしょうか、それとも他人を修めることでしょうか。
師父は『精進要旨』「時間との対話」の中で「これらの問題はすでに非常に深刻になっていますが、彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」と説かれました。私は内に向けて探さず、自分は師父の言われたとおりに行い、大法の仕事もしてきたと思い込んでいました。今回内に向けて探して、私は善の心を持って家族に接しておらず、家族への慈悲心が足りず、相手のために考えていないことに気づきました。
師父は『精進要旨』「佛性に漏れなし」の中で「今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」「まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」(『精進要旨』「忍とは何か」)と説かれました。私は家族とのトラブルの中で忍をしておらず、観念と恨みを持って家族とのトラブルを扱っていました。
師父は『大法弟子とは何か』の中で「大法弟子の前にあるのは着実に修煉するという道のみであり、ほかの道はありません」と説かれました。今回のことを経て、私も向上しました。以後私は師父の要求どおりに行い、勇猛邁進していきます。