文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年11月23日】
大法修煉の人には威厳がある
私は錦州市留置場中に10カ月間監禁された後、3年の懲役を強いられました。大北刑務所の第4管区、第一小隊に入れられ、小隊の管理をする警官は李春芳と言う人でした。
最初、彼女は私をオフィスの中に連れ込んで、手をヒーターのパイプに繋ぎました。もう一人の金正月と言う警官が、電気棒を持って私を電撃しました。それから受刑者の安小平と言う人に任せて、迫害を指図しました。この人は若いのですが、悪辣な手段をたくさん使いました。当時の私は、試練が必ず来ると分かっていたので、もうやってみなさいと思いました。小さい倉庫の中に、小さな椅子がありました。これが一種の刑罰だと思わなかったため、私はそのまま座りました。安正平は殴り始めて、私はじっと座って、瞬きもせずに安を見て、心のなかで思いました。あなたは若いので何もわかっておらず、まだどんな手段があるというの? ショベルを使って私を殺そうとする気があるの? 安は疲れて、殴るのをやめました。それから安は大隊長の徐中華に、「この人を殴っても無駄だ、もういいよ」と言いました。
私が断食をして迫害を抗議した時に、刑務所側は私を刑務所病院に連れて行き、ベッドの上に大の字に縛って、非常に邪悪な受刑者である呉傑と安正平の2人に迫害をさせました。一カ月あまりの間、私は管を胃まで差し込んで灌食され、心身ともに傷つけられました。夏の季節で、蚊もたくさんいて、私は動くことができず、ずっと体全体を刺されました。
ある日、意識が朦朧とする中、私は師父の法身がやってきたのを見ました。師父は「法に則って堅持すれば、残りは師父がやってあげます」とおっしゃいました。私は師父の話を肝に銘じて、いかなる場合も法理に従って、自分の頭を空白にしないように発正念をし、法を暗記し、覚えた法を暗唱したりしていました。
強制労働を拒絶
刑務所は毎朝5時に私たちを起こして、6時前から労働をさて、夜9時になっても終わらず、1日15時間以上強いられました。私はこのような酷使を否定し、労働改造を認めませんでした。
ある金曜日、工場から帰ると、私のベッドの上はまっさらで何もありませんでした。「あなたは布団のたたみ方が不合格、トイレに置いた。いるなら自分でとりなさい」と安小平が言いました。私は「誰かが捨てたなら、その人に取って貰う」と答えました。安はぶつぶつ罵りながら去りました。当時、これからまだ迫害をするのでしょうと思いました。翌日は休みで、月曜日までは誰も構わないので、彼女たちは布団と撤去して凍えさせ、私を迫害するつもりでした。私はそのままベッドの上に横たわって休憩しました。彼女は沈黙した私を持て、再び挑発しました。私は「誰かが捨てたなら、その人に取って貰う」と繰り返し言いました。他の受刑者・楊淑芬さんが小さい布団を持ってきましたが、安はそれを取って地べたに投げました。その後、他の受刑者・于艶鳳さんと楊淑芬さんが、大隊長の王因、当直の体調苗に事情を説明すると、苗は安に布団を取るよう命令しました。安はぶつぶつ言って、取りに行かなかったため、于さんと楊さんが私の私物を取ってきてくれました。安らの迫害は、再び失敗しました。
法規を使って迫害に抵抗
ある時、悪人の呉傑は、名前が書かれていないという理由で私のズボンを隠しました。当時、所内で受刑者たちは36条や46条などの刑務所の規則を覚えさせられたようです。皆が何を言っているのかは分かりませんでしたが、とにかく私は覚えませんでした。しかし、私を監視していた劉金桐が、分からない字を私に尋ねたりしました。私はそれを見て、中に自分の権利を保護するような条文があると気付きました。そこで、私は文書を書いて、人にズボンを取られて権利が侵害されたという内容で抗議しました。その文章を封筒に入れて、警官の李春芳に渡して、刑務所長に届くようしました。このことを通じて、私への迫害がかなり軽減されました。
2005年、私は家に帰りました。その後、保安派出所の戸籍管理警官の馬が私を呼び出して、もう煉功しないという内容の保証書を書かせようとしました。他の警官もいるにもかかわらず、私は修煉すると毅然と言いました。さらに、私は何も書かない、今日は一文字たりとも書かないと言い加えました。最後に、「もうそろそろ正月になるので、帰っていいですよ。正月の後にしましょう」と馬は言いました。
3年間監禁されて、私はたくさんの魔難を経て、師父のご加護の下で乗り越えました。師父に感謝し、私を助けてくれた同修にも感謝します。これから着実に修煉する中で、私は三つのことをしっかりして、もっとよくなって、大法弟子の使命を果たしたいと思います。
(完)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/11/19/136374.html)