文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年5月4日】先日、私はある学法グループに新たに参加し、同修達と接する過程で、長い間自分が法を良く学ばず、心をきちんと修めず、いつも外ばかりを見てきた結果が露呈し、同修達と摩擦が頻発しました。自分の認識は法理に則っていて正しいと思うのですが、同修からはあれもこれも間違っていると指摘され、自分の提案もよく否定されました。大法弟子として内に向けて修めて探すべきことを知り、これらの出来事に遭遇するのも偶然でないことも知り、自分に取り除くべき人心があることを知っていても、このように頻繁に指摘されると、特に自分の修煉の道を同修が按排しようとしていると感じて、私はどうしても一言自己弁明をしたかったのです。
しかし、師父はこのように説かれました。「弁明しようとすればするほど心が重くなる」(『洪吟三』「弁明を控えるように」)。 本当に、弁明すればするほど私は自分の心が塞いで苦しくてたまりませんでした。ついにある日、熾烈な衝突が発生しました。ある学法の夜、皆が集まって師父の説法ビデオを見ていました。最初の頃は静かでした。しかし時間が経つにつれて、同修達は水を飲んだり、立って動いたりし始めました。私は少し苛立たしくなり、このように法を聞くのは師父や法に対して不敬ではないか、師父はこんなに長く法を説かれても少しも水を口にしておられないのに、ビデオの説法を聞いている同修達は真剣でないと思いました。私達は説法の現場にはいませんが、ビデオを見るにしても真面目に法を聞かないといけないのではありませんか? 同修達が水を飲みに立ち上がったり、行ったり来たりすることで私自身が法を聴くことにも影響されて更に苛立ちました。しかし、言っても誰も聞いてくれないと思って、立ち上がってビデオの近くに寄り、心の中で、「あなた達は真面目に聞かなくても、私は真面目に聞きたいのだ」と思いました。しかし心が落ち着かず、何かが詰まっているような感じでした。
師父は『轉法輪』の中で次のように説かれました。「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」。 その後、横にいた同修が寝てしまった子ども弟子をベッドに移した時、私はこれ以上我慢出来ず、鼻先がテレビの画面にぎりぎり触れるほどの至近距離に移りました。この時、一人の同修が「なぜそんなに近くで見るの」と聞くので、私は「聞こえません!」と突き返しました。結局、その晩、誰一人きちんと師父の法を聞きませんでした。ある人は途中で帰り、ある人は最後まで聞きましたが私の件で不愉快になり、私は師父の法を最後まで聞いたものの、聞けば聞くほど心が落ち着かず、師父の法が耳に全く入ってきませんでした。
翌日の午前中、私は蟠りとふて腐れた気持ちで下宿に戻り、納得がいかず、悔しさも感じていました。私は線香を上げ、師父の法像の前に座り、師父の法像を見ながら自分の問題点を考えました。何故私が行く所に安寧がなく、家では家族の安寧を乱し、同修のところでは同修の安寧を乱すのか。しかし、私は自分が内に向けて探すしかないと分かっています。師父の法像に向かって私は「必ず自分を向上させ、これを心性を高めるチャンスとして逃さず、必ず自分を向上させ、自分の問題を見つけ出します」と決めました。
午後、私は再び同修の家を訪ねました。行く途中、私は突然分かりました。今まで自分をこうさせていたのは自分の利己心が強すぎて、問題を考える時、常に自分の為という立場に立っていたからです。自分が直面する困難しか眼に見えず、他人の犠牲が見えず、自分自身を保護したかったからです。私は自分が師と法を尊敬し、師父を保護していると自覚してはいますが、自分の心は純粋なものではなく、人心が多すぎたと思いました。
師父はこう説かれました。「皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです」「真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行なうことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」(『精進要旨』「再認識」)
これらのことを意識できたとき、知らぬ間に自分の心の状態が変わりました。以前、胸に感じていた塞がりが大分消えて、ほんの細い一本の線のようになり、周囲の空間場も穏やかに感じ、何を見ても気に入ります。その日の午後、私はできるだけ穏やかな口調で自分の考えを述べ、同修もトラブルの後に内に向けて探し、皆が再び睦まじくなりました。そして、同修に、如何なる場合においても、軽々しく修煉をやめるなどの発言をしてはならず、師父が悲しまれると指摘されました。(長い間、乗り越えられない関を前に、これ以上耐えられないと感じたとき、私は時々、もう修煉をやめるなどと、他人の誤解を招きやすい捨て台詞を言いました。実質、法を得た生命は、内心は決して本当に法から離れたり、法を放棄することを望んでおらず、このような念も本人のものではありません)。私は頷いて、彼女の話を心に留めました。確かにそのような発言をしてはならず、考えるべきでなく、そのような念が出てきたらそれを排斥すべきです。そうでなければ、師父の苦心による済度に面目が立たず、師への尊敬が欠け、自分自身と自分の衆生に責任を負わないことになります。
しかし、この利己心が徹底的に排除されない限り、トラブルがまた発生します。多分、師父は遅れている自分になるべく早く心性を高め、法を正す進展に追いつくように促されていると思います。数日後、新たな関がやってきました。明慧ネットに、ある同修が神韻を紹介するCDとチラシを袋に一緒に入れて常人に配れば、常人にポイ捨てされることを防げると提案しました。私はこの案が良いと思うと同時に、もしチラシを丸めてブルーのリボンで蝶結びをしてから袋に入れれば、チラシが折られることなく、更に非常に貴重に見えると思って、自分の意見を同修と交流して賛同を得ましたが、そのようなリボンがないと言われ、私は自ら進んで買ってくると言いました。
しかし、夜、戻ってから、子ども弟子の教育問題の意見の不一致で再び同修達と摩擦を起こしました。同修達は子ども弟子を責めていますが、私はどうしてもその一言、一言が私に指していると感じました。私は内に向けて探し、耐えるようにと自分に言い聞かせながら、この後自分が買ったリボンを同修達に見せようと思いました。リボンの選択があまり良くなかったのか、同修達は受け取るのに難色を示しました。私はこれらのリボンを持って自分の部屋に帰り、約2時間かけてやっと買ったリボンを見て、先ほどの刺激的な話を考え、私の常人の心が再燃しました。涙を堪え、私はパソコンをつけて師父の経文を学び、以下の師父の説法を心の中で繰り返し暗唱しました。
「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」(『精進要旨』「忍とは何か」)。 私は繰り返しこの経文を暗唱しましたが、耐えていくのは本当に苦しく、体中の細胞が震え、本当に苦しくて修煉が本当に難しいと感じました。しかし、私は必ず耐え、必ず内に向けて探さなければならないと自分に言い聞かせました。なぜなら、私は修煉して向上したいからです。
「なぜならば、人間に皆償わなければならない借りがあり、この空間の借りでなければあの空間の借りになります。皆苦を嘗めなければならず、このような難しさの中で、あなたが修煉できるかどうかを見ています」(『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」)。 師父のこの説法を見ているうちに私は少しづつ落ち着いてきました。そして、私は内に向けて探すと、やはり自分の利己心によって、問題に対処する際自分の立場に立って考えていました。子ども弟子の教育問題を例に挙げれば、私は自分の考えで子ども弟子を教育すべきと言いましたが、私の考えは必ずしも正しいとは限らず、もし間違えば、子ども弟子に良くない結果をもたらしてしまう場合、その責任は子ども弟子の母親が負わなければならないことになります。また、子ども弟子に対する私の態度も純粋なものでなく、子ども弟子をよりよく導こうとする真心は確かなものの、その中には私の歓喜心、顕示心と自分を実証する心も混じっていたのではありませんか? 同修の家で間借りをしている自分は多くの迷惑をかけていて、自分をきちんと反省せず、何が悔しいでしょうか? リボンにしても、同修は使えるなら使って良いし、使えないなら自分が保管しておけばそれまでですが、何がたまらないでしょう? 結局は自分に利己心があるために、自分自身の気持ちに比重を置きすぎたと思います。これらのことがはっきり分かってから、自身の良くない心や良くない物質が大分なくなったと実感しました。
これらの関を乗り越えてから、私は確実に自分の心にあった良くない物質が消え、心が軽くなったと感じました。同時に、自分の恐れる心、怨む心、利益心、依頼心、嫉妬心、顕示心、色欲心、面子を重んじる心、婚姻に執着する心、自分を実証する心、安逸心を見つけ出し、抑える努力をすると同時に、発正念してそれらを取り除いています。
個人的な体得ですが、内に向けて探すことは確かに容易なことではありません。しかし、修煉するなら、内に向けて修め、自分を修めなければなりません。修めることは名詞ではなく、形容詞でもなく、動詞です。着実に自分の内心に未だ存在する良くない人心や物質を取り除いて、初めて純潔になり、初めて大法弟子のすべきことをよく実行できると思います。
個人の次元に限りがあるので、不適切な部分があればご指摘をお願いします。