文/海外の大法弟子
【明慧日本2013年5月31日】この間、私は神韻公演の宣伝を手伝うため、ある都市へ行ってきました。そこでは、1999年以降に修煉を始めた大法弟子が多くいました。ある大法弟子が英語版『轉法輪』の中の師父の写真を、携帯電話の待ち受け画像に設定しているのを発見しました。師父の写真の上に、時間やメッセージが現れてきます。これは師父に対して非常に不敬な行為です。私はすぐに「このように師父の写真を扱うことは、師父に対して不敬な行為です。師父の写真を見たい時とか、人に見せるために、携帯に保存することは可能だと思いますが、提示する時は、必ず敬う心をもたなければならないと思います」と指摘しました。彼女は他の同修に設定してもらったと言い、このことについては誰にも教えていないとも話しました。
師父は『ヨーロッパ法会での説法』の中でこのようにおっしゃいました。「台湾に二人のガラス工芸品を作る人がいて、とても有名な夫婦だそうです。彼らは佛像を工芸品とし、多くのガラス工芸品を作りました。佛を工芸品にすること自体、既に佛を侮辱していますが、作った佛像は全て胴体のない、一つの頭で半分の顔しかないものです。佛を現代派や印象派の作品にしたのです。皆さん考えてください。彼らは偉大な神です。昔の人は神、如来佛に言及する時、敬慕の気持ちを持っていました。どうしてこんなことができるのでしょうか。神を表現し、佛教を宣伝しており、いいことをしていると思っていますが、これはただの不謹慎ではなく、最大の不敬です。実はあなたは佛をけなし、誹謗し、佛の偉大な形象を歪曲しているのです」
神、佛は人々を救い済度するために世 に下り、人々は敬う心で神、佛 に対しなければなりません。私たちは師父の偉大さ、慈悲深さを分かっています。すべての大法弟子は、師父のこの段落の法を読んだ以上、このような行為が何を意味するか分かると思います。
その後、この大法弟子は修煉を始めてからもう6、7年経ったと聞きました。そうであれば『ヨーロッパ法会での説法』はすでに読んだはずです。やはり学法が足りないと思いました。このことを私が見かけた以上、私は注意する責任があります。しかし、師父は、いかなる問題に出遭っても自分に照らしてみる必要があるとおっしゃいました。私にも問題があるのではないかと思いました。
数日後、私は1999年以降のことを思い出しました。自分が天安門に法を実証するために行った時、玉の佛のペンダントを首にかけていました。警官に逮捕されて、ペンダントは警官に奪われました。当時、そのペンダントのことで非常に心を痛めました。それが貴重だからではなく、その玉の佛は師父に開眼していただいたからです。いま考えてみると、あの佛の頭のてっぺんに穴を開けて、紐でストラップを作り首にかけていました。毎日手に取ったり、あちこちに置いたり、これも非常に厳粛でない行為ではありませんか。このような佛像を師父が開眼してくださいますか?
同時に、さらに悟ることができました。なぜ師父は何度も法を学び、通読し、選んで読んではいけないと教えられたのでしょうか。 あの時も自分が修煉を始めてから一定の時間が経っていて、『ヨーロッパ法会での説法』は当時すでに10回近くは読んでいました。しかし、その時は悟っていませんでした。この段落の法は自分と関係がないと思い込み、真剣に読んでいませんでした。今回、再び師父のこの段落の法を読んだ時は恥ずかしくてたまらず、一方、大法が無辺であることも感じました。
携帯電話の中の写真、首にかけていたペンダントなどは自分の生活の中の小さなことですが、これは修煉の範疇内のことです。私たちは自分の身近に発生したすべてのことに厳粛に対処しなければなりません。これは私たちの法輪大法が形式のない修煉方式だからです。
不足の部分は、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。