明慧法会|己の本分を守って、定められた役をきちんと演じる(二)
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文/中国の大法弟子

 明慧日本2013年7月22日】  

 四、己の本分を守って、自分の役をきちんと演じる

 Aさんはもう一つ大法のプロジェクトを引き受けたので、もっと安定した環境と、もっと十分な時間が必要になりました。今まで2人が共通の修煉環境を守りながら今日まで歩んできたことは、どれほど重大な意味があるか、私達もついに分かりました。

 新しいプロジェクトでは、私はAさんの要求によって資料を探し、技術面での応援をすることになりました。このプロジェクトの巨大な役割を知っている私は、無条件にAさんに協力しなければならないと常に心の中で自分に言い聞かせました。

 必要な資料をAさんに渡すと、彼は資料の整理に没頭しました。しかし、その時私の頭は異常に活性化し、「良いアイデア」が次々と湧き出て、いっそのことパソコンの前に座ってAさんと同じように資料を整理して、2人とも整理して優れたものを使用すれば良いではないかと思いました。私はとても「熱心」に整理して、師父に「知恵をください」とまでお願いして、自分が仕上げた作品の中に陶酔していました。

 Aさんはできた資料を私に見せて、私の意見を聞きました。結果、2人の構想は完全に異なるものでした。自分の考えに深くこだわっていた私は、Aさんの作品に対する評価がとても悪くて、Aさんに私の作品を使うように提案しましたが、Aさんは断りました。自分に固執せず無条件で彼に協力しなければならないことは法理上分かっていても、自己を放下できず、Aさんに不満を言い、Aさんを刺激する言葉も吐きました。Aさんは厳しい口調で「この仕事の責任者は誰か、忘れないでください。あなたが今のままだと、この仕事はできなくなりますよ」と言いました。

 私はすぐ黙りました。もし私が心を清浄にしないで不満を抱えながらこの仕事を続けると、きっとAさんに察知され、邪悪も私の不満を利用してこの仕事を失敗させるでしょう。どのように同修に協力するかについて師父は多く説かれており、私も実践の中で多く経験しましたので、私はすぐ思想の中の良くないものを取り除き、表面上は、今まで通りAさんに協力しています。

 私は心を静めて、どうして自分の書いた文章が良いと思い、Aさんの文章をそれほど低く評価したか考えて、すべての観念を持たずに客観的に二つの文章を比較しようと思いました。しかし、パソコンを立ち上げたとき、なんと! 私が書いた文章と探し集めた関連資料はすべて無くなっていました! 一方、この文章と関係がないファイルは何の異常もありませんでした。AさんのUSBメモリーには彼が書いた文章と私が彼に渡した資料は保存されていましたが、異常はありませんでした。

 これは深刻なことだと私は気付きました。二つの文章を比較しようとすること自体が間違っており、それはやはり自我を放下できていないためで、たとえ自分の文章がAさんより良く書けていたとしても、私は自我を放下しなければならない思いました。Aさんの文章を低く評価して自分の文章に陶酔するのは、「自分の心より魔が生じる」ことではありませんか。Aさんの文章に対する嫌悪感と、自分に対する陶酔の感覚は、実は執着心が招いた幻像に過ぎませんでした。私はその虚像にそれほど騙されたのでしょうか!

 しかし、上記はまだ私の執着心の本質ではないような気がして、ほかにまだ根本的な問題があると思いました。

 自分が書いた文章が消えて、もとの資料まで無くなったので、もう一度書くことができなくなりました……。まさか自分がやったことは師父が望んでおられないことだったのでしょうか? 師父はもともと私にこの仕事をさせないのでしょうか? 私は突然悟りました。私は自分の演じるべき役を忘れていました! このプロジェクトの主役として師父が選ばれたのはAさんで、私ではありません。私は無条件にAさんに協力すべきでした。それこそ師父が私に望んでおられることでした。しかし、私はこの「脇役」を演じたくなく、自分の考えがいっぱい溢れ、「主役」を競って演じたく、また「試合」をやりたかったのです。自分の責任範囲内の事をしっかりせずに、Aさんをも邪魔して、本当に危ないところでした。

 もっと深く掘り下げて探すと、もう一つの良くない人心を発見しました、つまり何かあれば、仲間入りをして遊びをいっそう賑やかにしたい心です。更に探すと、師父と大法をどれほど信じるかの問題もあります。師父のすべての按排にはそれなりの理由があり、誰が何をやるか、すべて理由があります。自分のやるべきことをせずに他人のやっていることにあえて口を挟む、これは変異した行為ではありませんか?

 師父は『二十年説法』で「実は、最後に救い済度される生命、組み立て直されたすべては私が手に入れたいものではなく、または基準に達していなければ、やり終えても無駄であり、消滅させなければなりません」と説かれました。

 それから、私は己の本分を守って、補助的な作業をしっかりやり遂げ、すぐにすべては順調になりました。Aさんが書いた文章に良い提案があれば、私は誠意を込めて率直に言います。Aさんが提案を採用してもしなくても、私はもう心が動じません。その後、資料と文章の素材が奇妙に消えること(その時、私はまた自分の役を忘れて、Aさんの代わりに文章を書こうとした)が一度起きましたが、それきりそういう事は二度とありませんでした。私とAさんの協力もますます息が合い、効率はますます良くなり、私達は各自の役の中で向上しています。私は単純にAさんに協力しているのでなく、私は師に手伝って衆生を済度しており、そうする中で師父が按排してくださった役をしっかり演じている、と私は分かっています。

 振り返って、思わず師父の按排に驚嘆しました。師父が弟子のために按排された道は、最も早く弟子を向上させる道だと思います。脇役を演じることは、興奮しやすく、よく出しゃばり、落ち着かない私の性格を修正する絶好の機会です。これが分かった時、心の中は師恩に対する感謝でいっぱいになりました。

 五、苦に耐えて、しっかり学法する

 ここ数年、私は学法の質を高める面でとても努力したので、今は学法する時にほぼ雑念がありません。特に『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』の経文が発表された後、私はいっそう厳粛な態度で学法しています。

 今考えてみると、もし学法の基礎がなければ、一回一回の心性の試練を完全に乗り越えることはできないかもしれません。なぜかというと、毎回苦境に追い込まれる時、頭の中できっと師父の言葉を思い出すからです。時には一つの問題をめぐって師父がいろいろな角度から説かれた法理を、すべて思い出すことができ、すぐに法理がはっきり分かり、自信と力が満ちます。時にはすぐに問題を解決できなくても、心の底は自信にあふれ、大法に頼って自分はきっと乗り越えられると信じているのです。

 師父は『二十年説法』で「この世間は迷いの中にあり、修煉者も信じるか、信じないかの中で修煉しています」と我々に説かれました。

 大法弟子が出会ったことに偶然はありません。私達は外見上、常人とほぼ同じように見えますが、私達の一生は修煉の一生で、少しの油断も許されません。だから、師父は何度も私達に一心に学法をするようにと言われました。実は、学法することに関しても苦しみに耐える覚悟をしなければなりません。この苦しみは肉体の苦しみでなく、思想の中で安逸を求め、人生を楽しもうとする気持ちや、目新しいことを求める好奇心、種々の楽しみが得られない時の苦しみなどを指しており、それは本当の自分ではありません。もしそれらのものに左右されたら間違いなく学法に集中できなくなります。しかし、もし突破することができれば、それらのものを取り除くことが出来ます。完全に取り除くことが出来たとき、自分は大法の中に溶け込むことができたと感銘し、その感銘は非常に貴重で忘れ難いものになります。

 しっかり大法を勉強できるかどうかは、最後の時期に私たちが直面するとても厳しい試練でもあります。物欲が溢れる世の中に終始一貫に師父と大法をかたく信じられるかどうかは、私達が円満成就できるかどうか、師父が按排してくださった道を終点まで歩んでいけるかどうかの肝心な要素だと思います。

 師父、ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございます!        

 (完)

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/12/264166.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/12/13/136645.html)
 
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