耳を傾けることを習得する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年9月24日】ある日、業を滅する過程で体がしんどく感じていました。ちょうど同修Aさんが訪ねてきましたので、私は彼女と交流し、原因を探してもらおうと思いました。しかし、Aさんはこう言いました。「この数日、腕が痛くて、抱輪(第2式功法)もままならず、自分も原因を見つけていないのに、どうやってあなたを助けますか?」。翌日、同修Bさんが来て、私は同じ質問をし、彼女はこう答えました。「私も最近、修煉状態があまりよくなく、ちょうどあなたと交流して悟ってもらおうとした所です」。私は失望を覚えると同時に、一つのことに気づきました。なぜ私が他人に助けを求めようとするとき、相手は私の問題を避け、自分のことを持ち出すのでしょうか? それは、まさに私の今までの行為ではありませんか? 一種の私ではありませんか?

 これまで何度も、同修に交流を持ちかけられたとき、私は相手の立場に立って、静かに相手の話を最後まで聞いて、それから法理に沿って共に認識を向上し、難関を乗り越えるのではなく、相手の話の最中に割り込み、急いで自分のことを言い出し、相手の問題をほったらかしてきました。特に、業を滅する最中の同修に一緒に悟るよう頼まれたとき、私の答えは決まってこれです。「私もこの状態ですよ。もう何日も経ちますが未だに突破できていません」。交流の最後に、相手を助けるどころか、却って相手に助けてもらうのが度々でした。

 もう一つの私の言動の特徴は、自分が良い修煉状態にあるとき、難関の最中にいる同修に対して理解や同情を示すのではなく、却って話す声が大きくなり、師父の法をもって相手に「諭す」時、批判的な反問句も多いのです。例えば、「こんなに長く修煉してきて、なぜこんなに基本的な間違いを犯すのでか? これでは駄目ですよ・・・」。多くの場合、私は同修を助けるどころか、寧ろ下へ押しつぶしていたでしょう。実際、同修を助ける過程は、自分を修める過程でもあります。真心を持って相手のために考えるのか、或いはそれを機に自分のことを言いふらし、相手の問題を軽視してしまうのか、これは本当に一種の境地です。新宇宙の生命はこのような振る舞いをしないはずです。

 ある同修からこのようなことを聞きました。彼らの学法グループにある年老いた同修がいて、肌が白く、若々しくて、皆は彼女の修煉状態が良いと思っていました。しかし、この間から、この老年同修は学法後、目がよく見えなくなることが度々あって、皆に一緒に悟ってもらいたいと悩みをぶつけて来ました。毎回、彼女はこの問題を提起したとき、誰もがまじめに気に止めず、それぞれ自分を中心に知っていることや悩んでいることを言い出し、時には大声での争論にもなりました。この老年同修は話がゆっくりで、誰にも気に留めてもらっていないのをみて、黙って孤独に座り込んだり、時には先に一人で帰ったりしました。しかし、ある日突然、聞いた話によるとこの老年同修は入院しました。また数日後、彼女は修煉をやめたと聞きました。

 このときになって初めて、皆が問題に気づき悟り始めました。「私たちは利己すぎました。この老年同修は何回も目のことを言い出しましたが、誰が本当に彼女の事を心配したでしょうか? 誰が法理に沿って彼女を助けたでしょうか? 学法後、誰もが一言、一言と自分のことを言い出し、やかましく騒いだだけではありませんか。老年同修は口数が少なく、誰もが自分の事を気に留めないのを見て、自分はあまり良く修めていないと思い、病業の関もなかなか乗り越えられず、グループから去りました。このとき、邪悪は隙を狙い、彼女への迫害を重くし、彼女をグループから引きずり降ろしました。

 二人の交流であれ、数人の交流であれ、あまり自分のことを重く思わず、自分のことばかり考えて、他人を軽視してはいけません。それが私です。プロジェクトのことであれ、病業のことであれ、同修に助けを求められたとき、真に心を静めて耳を澄まし、冷静に判断し、話題を逸らさず、割り込まず、相手の話を聴きながら、自分のことを考えてはいけません。本当にこれができれば、たとえ相手に与えるのはほんの少しの助けであっても、それは無私の現れなのです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/9/18/279846.html)
 
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