怨む心を解体する
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文/中国大陸の大法弟子

 【明慧日本2013年8月24日】最近気づいた事ですが、私はトラブルに遭ったとき、内心では真っ先に他人を怨み、それから自分の非を探し始めていました。しかし、これは内に向けて探すことではありません。

 例えば、私の周囲に同修間のトラブルをよく引き起こす一人の同修がいて、彼女は以前自分と摩擦のあった同修に対していつも根拠のない悪口を言い、他人を傷つけます。彼女が他の多くの同修に与えてきた傷害を目にしてきた私は、彼女に深い怨みを抱き、彼女の顔を思い出したり、彼女の名前を聞く度に強い反感を覚えました。しかし、真っ先に自分の内に向けて探すことを忘れ、なぜ自分だけが彼女のこのような言動をよく見聞きするのかを考えませんでした。

 最近、私と身近の一人の同修の間で小さな摩擦が起こり、法を実証するプロジェクトにおいて彼女の助けを求めましたが、彼女は拒み続けました。私は彼女が恐らく私に面倒をかけられる事を嫌がっていると感じ、心の中では彼女に対して怨みを抱くようになりました。

 グループ学法の際、携帯電話で学法する同修をみて、その学法の姿勢もよくないことを指摘し、内心ではまたしても怨み始めました。どうして皆の安全の問題に気を配らないのですか? どうして師父や法に対しこんなに不敬な態度を取るのですか?と。

 とにかく、私は他人の言動が自分の気に食わない時、他人が自分の執着にぶつかった時、不満を抱き、他人を怨みます。この点から見ると、怨みは他人に対する一種の不満の情緒であり、一種の情です。この情に支配されれば、何が何でも真っ先に他人の非を探します。これが「外に向けて探す」考えのモデルの形成のスタートですが、根源ではありません。これは宇宙の法理「真、善、忍」と完全に反し、法が正される中で取り除くべき対象でもあります。

 なぜ怨みが生じるのでしょうか?

 個人修煉の観点から見れば、私達はトラブルに遭うといつも常人の角度から物事を考え、自我を堅持しようとし、「私が感じたこと」、「私の認識」、「私の利益」、「私の面子」など等の人間のものを保護しようとしているからです。故に、怨みが生じる根本的な原因は「私」があるからだと思います。

 もし「私」の感受から抜け出し、他人のためという角度から本当に同修のために考え、同修を助けることができれば善意に助け、できないなら怨まず、黙々と正念を持って同修を加持すれば、なぜ怨みが生じるのでしょうか?

 法を正す角度から考えてみると、一部の同修達は歴史上怨縁が結ばれ、それに加え、旧勢力はこの点を利用して破壊的な按配をしてきたため、どうしても同修の間には多少の怨みが存在します。この怨みは他空間では隔たる物質を形成し、法を実証する中で相互への妨害として表れ、特に邪悪が少ない今の状況の中で、それが邪悪でさえ発揮できない破壊作用を起こし、大法弟子の全体の協力において一定程度の妨害となっています。怨みは一般的には激しく表面に現れて来ず、大法弟子の心の中で深く隠れているので、見落とされやすく、故に、法を正す中でその危害も大きいのです。

 また、怨みは大法弟子が内に向けて探すことを阻む大きな壁になり、自我を堅持する心、他人を見下す心、善意に他人を理解できない心、他人を寛容できない心などなど、多くの人心と繋がっています。

 怨みはまた一種の負の生命であり、はっきり言えば一種の魔です。これは大法弟子が発する怨む念に依存し、生存を繋ぎとめています。心の怨みを解体しましょう。これ以上、怨みによる大法弟子の間の隔たりがないようにしましょう。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/21/278468.html)
 
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