「人に迷惑を掛けたくない」その本音は?
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観念を打ち破る

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年4月5日】私は、幼い頃から人の助けを求めることがあまり好きではありませんでした。人に迷惑を掛けると思い、自分ができることなら絶対人に頼らず、それは自分がしっかりしている、自分が「無私」だと思い込んでいました。時には自分ができなくても人の助けを求めません。この執着心は自分の修煉にもたくさんの面倒をもたらしました。私は悩んだ時もありました。何か違うと思いながらも、自分が正しいと思っていました。

 あるとき、座禅をしているところ、私はふと何でも自分でやる心と、人に迷惑を掛けない心を捨てるべきだと思いました。人に頼りたくないこと自体は人に頼まれたくないということです。人に迷惑を掛けられたくない執着心を今まで隠しており、何年もの間、この執着心を持ち続けてしまいました。そして、自分がいつも厄介な立場に置かれていると感じ、心の中でむしゃくしゃしたことがよくありました。

 師父はいつも「自然に任せる」[1]とおっしゃっていますが、今、やっと理解しました。例をあげてみましょう。友達の家に遊びに行ったとき、帰りにお菓子をくれましたが、自分はもらいたくないし、どうせ捨てるからいらないと思いました。しかし、断れず、自分に面子を重んじる心がなくても友達は常人なので、相手の立場も考えなければなりません。違う立場から見ると、お菓子をもらいたくない理由は、やはり、この「借り」をなくしたいために、相手にお返しをする機会を探さないといけないからです。時々、人が生きることは疲労困憊すると感じています。このお菓子をもらうと、自分は借りがでてきたと思います。もらわないほうがずいぶん気が楽です。そこまで手を煩わせることはないでしょう。しかし、これは無私の角度から考えているでしょうか? これも情ではありませんか。本質的には自分の「無私」で自分の「私心」を覆い隠していると言えます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/2/8/269260.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/6/13/140477.html)
 
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