二言三言:「寂しさ」について
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 【明慧日本2014年6月12日】中国で迫害されても堅く法を実証する修煉者でも、海外で全力で三つのことを行う修煉者でも、「寂しさ」を体験した人は多いのではないでしょうか。

 師父は「耐え難い寂しさです。以前山に入って道を修めた人はなぜ道を得ることができたのでしょうか? 世の人々は栄耀栄華を極めています。そうではない人、お金のない人は少なくとも親戚友人がおり、この世での楽しみがあります。一人で山で苦しく修煉して、人間と接触していない耐え難い寂しさは人間の多くの執着心と各種の欲望を磨き取ることができます」[1]と説かれました。

 最近、この問題について、ある同修と交流しました。私は「寂しさを解決するには、修煉でさらに精進すべきで、相手を探したり、結婚したりするのではない。それはただ時間を浪費するだけだ」と考えました。

 寂しさや悩みを感じるたびに、話し相手がいないとか、困ったときに助けてくれる人がいないと感じますが、このような問題には具体的な解決方法があると思います。

 最も重要なことは、寂しさと寂しさを解消した後の満足感は、すべて「情」だということです。何かを得たとか、何かを失ったとか、これらのものは自分の向上に全く関係ありません。よって、一旦、寂しさを感じたとき、どのように正念で排除し、認識するかを分かっていれば、乗り越えることができます。寂しさの感覚に浸ってはいけません。寂しさを積極的に感じること自体が執着です。

 「寂しさ」に関して、自分の認識を述べましたが、同修の慈悲なる指摘をお願いします。そして、すべての大法弟子がともに精進し、法を正す師父に手伝うことを望みます。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2014/6/5/293036.html)
 
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