台湾の学習者:新唐人での修煉体験(一)
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文/台湾・台北市の大法弟子

 【明慧日本2014年6月14日】尊敬する師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 2010年、私はニューヨークにある新唐人本部に来て、ある全世界規模の番組計画の推進に参与しました。この仕事は私の能力を超えていると思いながらも、適切な人材が他にいないと言われ、全力を尽くしてやってみようと思いました。初期、私は新唐人の番組を観察し、長い間、番組の視点が個人の好みの段階に留まっていることに気づき、着実な分析が足りませんでした。私は統計方式をもって現場の状況を分析し、それから東西のメディア番組を参考に視聴者層を分析し、現在の状況や、社内の人材の状況なども考えました。各方面の要素を全面的に考慮してから、私は当面の主要任務はテレビ制作のプロの人材を大量に育成し、彼らに基礎技術をしっかりと身につけてもらい、それから他国の人材と協力し、より良い全体協力を目指すことだと思いました。私達は比較的実行しやすい世界計画を立てました。それは全世界的なシリーズ番組を出し、人材の育成と人材の協調に重点を置くというものです。

 私はもともとテレビ局出身ですので、新唐人に加わってからずっと人材の育成に参与してきました。私が最も恐れているのは、教育訓練の授業中に皆の納得しない目線にさらされることですが、しかしその同修達が制作した番組を見ると、とても初歩的な問題が存在しています。私は自問しました。なぜ私は彼らの教育訓練に手助けをしているのでしょうか? 自分を実証するためでしょうか? 違います。私はただ自分の経験を皆さんと真摯に共有したいだけであって、指摘されても構いません。それなら何故それで傷つき、授業に出ることを恐れるのでしょうか? 私は自分の基点を正し、恐れる心と心配する心を発正念して排除することにしました。ある日の教育訓練中、私は自分の純粋さを感じ、その後、授業の録画画像を見ると、法輪が雪のように私の体に降り注いでいました。それを見た同修も感動を受けました。本当に師父がおっしゃったように、法輪の一つ一つが雪のように私の体に落ちてきました。私はこの経験によって大きく励まされました。

 新しいシリーズ番組を作り出すと同時に、私たちは一連の教育訓練計画も立てました。

 一、観念を打破し、謙虚に学ぶ

 新唐人テレビ局において、大部分の同修はアマチュア出身で、専門領域と接する機会が少なく、新しい知識を学ぶとすぐに固定観念になってしまいがちです。彼らを教育訓練したければ、まず以前の固定観念を打破しなければなりません。一方、新人は観念が少なく、時にはかえって教育しやすいのです。

 能力があって、優越感が比較的に強い同修は時々こう言います。「私が米国で見た番組はこうではありません」。「ここ数年、私たちは専門知識がなくてもやってきたのではありませんか」。「これらの理論は常人のものです」。以前なら、そう言われると私は、すぐに自分を疑い始めましたが、その後私は内に向けて探し、劣等感を取り除き、正面から同修を理解することに努め、皆の協力こそが大事だと思い、彼らと交流する手法を変えてみました。例えば、より自然で受け入れやすい方法で彼らに問題に気づいてもらい、あるいは第三者を経由して交流を深め、励ましや肯定的な態度で彼らと接するようにしました。

 時にはこのような質問にぶつかります。「あなたは何故自分が他人を教育訓練できると思うのですか?」このような質問は本当に試練です。その後、私は再び自分の基点を正し、衆生を救うことを常に思い、他の念を無くし、あとは如何に目標を達成するのかだけを考えました。大法弟子は真面目に専門知識を学べば、常人よりもっと良くできると思います。なぜなら、私達は法を学んでいるので、良し悪しをきちんと分別できるからです。そして、私には少し経験があるので、自分の経験を皆と分かち合いたいだけです。実際、多くの同修は私以上に潜在的能力があります。基点を正してから、私は同修に言われる話をあまり気にしなくなりました。

 しかし、修煉状態があまり良くない時、私は指摘されて悔しく感じます。大体の場合、学法が少なく、正念が足りなく、人心が生じた時にそうなります。全ては衆生を救うためだと思い起こすとき、元気になり、人心による影響を受けなくなります。

 時には、辛く、遅く、大変そうにプロジェクトを実行している同修を見ると、助けたくなりますが、しかし交流してみると、やはり肝心なのはその本人が修煉において一段と向上しないといけない場合が多いことに気づきました。いくら専門人員に助けを求めても、いくらいい機材を増強しても、根本から問題を解決できません。ここ数年の教育訓練や人材育成経験が示してくれたように、大法弟子の実行するプロジェクトが良くできるかどうかは、その本人の心性と基点に掛かっています。純粋に衆生を救おうと思えば向上できて、道が開きますが、反対であれば道を塞いでしまいます。

 師父は『轉法輪』の中でおっしゃいました。「心性の高さが功の高さなので、功は心性に合わせて与えられるものです。名利心が重いほど、常人の中で激しく堕ちていきますので、功もそれにつれて堕ちていきます。最後に完全に堕ちてしまった時は、功も与えられないので、何の功も出なくなります。」

 初期の頃、私たちは宿舎と行き来する二時間を節約するため、テレビ局で寝ることが多かったです。時に、同修は与えられた番組製作の時間があまりにも少ないと感じ、その番組を再放送と差し替えるか、一時的に放送停止にすることを望みました。しかし考えてみれば、この種の圧力もある意味では私達自身へのテストあるいは督促にもなると思い、そうしませんでした。

 時には、膨大な協調の仕事の合間にやっと時間を見つけ、同修を助けて番組を完成させても、やはりあちらこちらから指摘の声が上がってきます。これはああいう風に表現すべき、あれはこういう風に表現すべきなどなどです。製作にかけた時間があまりにも短いのは確かに問題ですから、私も多く弁明しません。しかし、時には同修の継続した正念の加持が必要であり、もし同修間で意見の不一致によりプロジェクトが停滞してしまう場合、私は積極的に双方の交流や意思疎通に走らなければなりません。もし私たちが皆、互いの作品(番組)を肯定的に見て、相手の問題を過大視しなければ、多くの事が順調に展開されたでしょう。多く場合、私たちは相手の問題を過大視してしまったせいで、誤解や隔たりが生じました。私は他人またはほかのプロジェクトをそう見ないように自分に言い聞かせています。

 全世界規模のプラットフォームを建立する過程で、各地区を理解するための一定の時間が必要でした。夫々のプロジェクトの協調人は自分達の立場に立って物事を考えることが普通だと思われています。例えば、わが地区はこう発展すべきとか、私たちの番組はこうであるべきとか、或は私たちのプロジェクトは人が必要だとかの等々です。しかし、修煉の角度から考えると、この普通は普通でなくなり、一種の利己的な人心になります。私たちは「全体」が見えているとき、物事の見る角度が変わってきます。最も肝心なのは皆さんがよく協調出来るかどうかです。最近の経文の中で、師父は再び私たちの協調の重要性について法を説かれました。「ご存知のように、大法弟子が迫害に反対するため、真相をはっきり伝えるため、人を救うため、多くのプロジェクトを立ち上げましたが、最も重要なのは皆さんがしっかり協調し合うことであり、協調が取れてはじめて、仕事を円満に行なうことができます。」(『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』)

 その後、私は同修のアドバイスを受け、自分個人での学法や煉功をやめ、テレビ局内のグループ学法や煉功に参加し、そして周囲の他の同修にもそうするよう勧めました。たとえ会議などで参加できなくても、私は必ず心を静めて学法するよう自分に要求しています。その後、私たちのチームの全体の修煉状態が著しい改善を遂げ、仕事の質や効率も良くなりました。

 (続く)

 (2011年アジア法輪大法修煉体験交流会で発表)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/29/251169.html)
 
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