「睡魔」の関を乗り越えた体験
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 【明慧日本2014年7月25日】私は煉功している時にすぐ眠くなっていました。その関を乗り越えた体験を皆さんにお話したいと思います。

 私は2、3年前、静功を煉功するとき、よく眠気を感じていました。同修は「発正念をすると、この眠気は取り除くことができますよ」と言いました。私はとりあえずと思って、発正念を試してみました(「試す」というのは確固たる意志ではない)が、明らかな効果はありませんでした。今回迫害されて家に戻ったばかりの数日間は、煉功の状態はある程度良かったのですが、その後はまた睡魔に妨害されました。

 今度こそ、私は必ず乗り越えようと決心しました。そして、心を静めて師父の『長春輔導員法会での説法』を読み、その中で眠くなることについて師父は何回もおっしゃっています。師父は「苦を嘗めることを皆さんは知っていますが、寝てしまうということもあなたを邪魔しており、あなたに修煉させないということだとは思わなかったのでしょうか? これもあなたの意志が作用すべき時ではありませんか? 目を開けたままでも寝てしまうのでしょうか?! どうしても駄目なら、目を開けて煉功してください。この関を乗り越えなければなりません」[1]と説かれています。

 私は眠気を感じると、目を開けたままでしています。そして、心の中で「睡魔、私はあなたはいりません。私を妨害しないでください」と言います。確かにある程度の作用はありました。しかし、苦しくなり、意志が弱くなると、また妨害されます。そこで、私はまた師父が説かれている法に照らしてみました。

 「法を勉強する時に寝てしまう、本を読む時に寝てしまう、煉功する時も寝てしまう、この最も初期的なものも乗り越えることができません。それは意志なのです! ご存知のように、修煉の中で人間を構成しているあらゆる要素もあなたが人間から脱皮することを阻んでいるだけではなく、人間のあらゆる環境を構成しているものまで、あなたが離れていかないように阻んでいます。どんなものをも突破しなければならず、どんな魔難をも乗り越えていかなければなりません。その最大の現れはそれらのものがあなたに苦痛を与えることです。しかし、苦痛に異なる形式があり、眠いのもその一種です。修煉できなくなり、精進できなくなった人はそれが苦だとは知らないのです。あなたが法を得ることができず、それらのものはあなたに法を学ばせていないのに、それが魔難とは感じていません。心が法に置かれておらず、修めたくなければ、話は別です。どうしてそれを抑えないのでしょうか? 意志を強めましょう。人間は自分が寝てしまわないように自制することで、成佛することができれば、私に言わせれば、それはあまりに易しすぎるのです。この小さな関も乗り越えることができなければ、どうやって修めるのでしょうか?」[1]

 私は意志を強くすると同時に、さらに「眠気」を構成する物質が人間のものだということを、はっきりと見分けなければならないと気づきました。私たちは神を修めているのであり、それは私たちが取り除くべき物質です。私は自分の神の一面と人間の一面(眠い)を区別し、「眠気」はいりません。その後また、あの「眠気」に対して発正念をして取り除き、とても良い効果が得られました。

 「睡魔」を突破することについて、私の個人的な理解では、人それぞれにこの面の持っている物質の量が違います。従って、それぞれが払う代価も同じではなく、どのくらい耐えられるかどうかも違います。それは自分に対して必要ないと、最大の精力を傾けてきれいに取り除かなければなりません。日常生活の中でも「眠気」を感じたら、それは人間のものだと認識し、直ちに取り除きましょう。

 個人的な悟りであり、適切でないところがあれば、ご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『長春輔導員法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/24/278453.html)
 
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