法輪大法は私を変える(一)
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文/米国の西洋人大法弟子

 【明慧日本2014年8月6日】(次の文へ

 私は修煉を始めすでに2年半になりました。間違いなく、修煉は私が今までやってきたことの中で、最も難しい事です。この文章を書くにしても、私にとってはとても容易なことではありません。過去1年半の中で、私はこのような交流文を書こうと試みましたが、この段階を乗り越えることができませんでした。私は自分の修煉には本当に話せることが何もないと思いました。私は絶えず転んで、執着と欠点がたくさんがあり、他のた多くの良い同修が、私より更に精進して、「3つのこと」をよく実行しています。しかし、同修は修煉体得を書くことは、自己を実証するではなく、法を実証するのためだと私にアドバイスしてくれました。修煉上で私は、おそらく自分が目指す境界に達していませんが、修煉の交流文章は一人の修煉者として、私が良いことと不足していることの中で体得したことです。ですから、私は交流文書を書けないと、言い訳することがでした。もちろん、私には名への執着が現われてきましたが、私はそれを認識して克服しました。

 修煉をはじめてからまだ長くなく、私は自身のたくさんの変化に気づいていませんでしたが、修煉する前の私の知り合いは、私の変化はとても大きいと言っていました。私が気づいた点の一つは、私が以前のような怒りやすく鋭い人ではなくなったということです。また以前なら、ちょっとした焦りや、気落ちする事に出会った時、たとえそれが生活の中で普通の圧力だとしても、私はとても大きな影響を受けました。私はできるだけそれを表現しなかったにも関わらず、私の怒りはやはり現れて来ました。私はいつも怒っていました。出会った問題をどうのように解決するか知らないため、現在生活は私がそのように欲しいではないためです。私はこのように動かされてから、その時私は明らかに身周りの人に具合が悪いことをさせました。私が彼らに対して悪いことをしたと言うのではなくて、私の状態が他の人にマイナス影響を持ってくることです。多くの場合は、他の人は私に言いました、私は彼ら出会ったことがある最も怒りやすい人です。しかし、数年の修煉を通じて、このことはすべてなくなりました。私は時にはまだ強い思想業が現れていますが、修煉はやはり容易ではなくありませんが、法輪大法を修煉するため、問題を処理する時に私は以前に比べてすでにずっと良くなりました。私の親友は私が今全く別の人に変わったと言いました。私はそれほどの大きな変化を意識していませんが、私は彼らのすべて法輪大法が本当に良いと分かったことに、とてもうれしく思います。

 修煉を始める

 私が修煉者になった経緯はとても簡単です。私が大学院生の最後の1年の時、私のルームメイトは西洋人でした。私達は会ってから、各種の問題について長話を始めました。自然の流れで、彼は修煉に言及しました。もちろんすぐに引き続きもっと多くの雑談をしました。最後、彼は私に『転法輪』を見せてくれて、私はすぐに読み終えました。あの時から、私はずっと法輪大法のことだけを考えてきました。大体5、6カ月間の思考を通じて、私は本当に修煉者になると決めました。しかし皆さんがご存知のように、修煉は容易な事ではありません。私はとても大きな抵抗に出会いました。もしルームメイトの助けがなければ、私は恐らく諦めてしまっていたかもしれません。

 (大法を得た後に)私はすぐ、自分に対して深い疑いが生まれました。修煉者への要求はこのような高さであるのに対して、私は自分の出発点がとても低いと感じました。多くの時に、私は諦めることを選び、私は自分がまったく修煉することができないと思いました。しかし、私のルームメイトはいつもそこで私を手助けしてくれました。私は彼に自分がどのようにひどくて、永遠に(修煉者のように)できないと言いました。彼はいつも私に絶対に法を学ばないわけにはいかず、諦めないことを教えてくれました。そして、私は引き続き修煉していくと決め、1歩ずつ進んで来ました。

 私がちょっと落ち着いた時、まず私が関心を持ったのは口を修めることです。私はスポーツ選手で、また肉体労働に従事しています。水夫のように汚い言葉を口にするのは、私にとって呼吸をするように自然なことでした。時には粗野な話をした時、私自身、意識すらしていませんでした。とても大きな努力を通して、ずっと警戒を怠らないことで、私はだんだんと、話をする面において、1人の修煉者のようになりました。

 これほど多くの執着を捨てなければならないので、時に私はとても気落ちしてしまって、自分が修煉者のように精進していないと思いました。私はとても焦って、時間が足りないように感じてしまいました。これはまたもう一つの執着です。私はよく焦り、自分が法を得たのが遅く、多くの基礎的な部分を勉強する必要があると感じていました。だから、私が修煉者の標準に達していない時、私は更に焦っていました。しかし、いつもこれらの感覚が現れてくる時、私は、ある修煉者が三界から抜け出す時、初めは喜び、それからまた恐れて、2度も失敗した物語を思い出しました。私がこの物語から得た教訓は、いつ修煉を始めたかに関わらず、私の次元がどこにあっても、私は修煉者であり、法を正すことがいつ終わっても、私が修煉者でありさえすれば、事はまだ終わっておらず、私は必ず三つのことをしっかりと行わなければなりません。私は法を正す時期の大法弟子であり、その他はすべて重要ではありません。

 (続く)

 (2014年米国中部法会での発言原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/4/295580.html)
 
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