文/中国の大法弟子
【明慧日本2014年10月22日】私は1998年、14歳の時に修煉を始めた古い弟子です。
大法との縁
私は14歳の時に偶然に修煉を始めました。多くの大法弟子が法を得た時の幸せも、持病が全快した時の喜びと感謝も知らず、私の心境はずっと平穏でした。体も敏感でなく、法輪が回ることを感じることができず、他の空間のものを見たこともなく、煉功した後に何も感じませんが、大法はいつの間にか深く私の心の中に入って、どんな時でも大法を離れない決心をしました。
上記は以前の感銘にすぎませんが、今の私は、大法の修煉に入れたことはとても幸運なことで、私は衆生を救い済度するために師父についてこの世に下りて、下りる前に師父と誓約を交わしたので、偶然に法を得たのではなく、他の同修と同じように衆生を救い済度する責任を背負っていると分かっています。
自分の体が敏感でないことも一種の良くない物質であると私は考えています。なぜなら、私を大法に対して動揺させるからです。修煉において私は喜びと奇跡を体験したくないわけではありませんが、ただそのような物質に遮られたのです。
旧勢力の妨害を見分ける
迫害が始まってから、普段から無口な私は、周囲の知らない人になかなか口を開いて真相を伝えることができないため、彼らを救えないことに対する罪悪感で心が重苦しくなって、意気消沈になりました。一時、見知らぬ人に出会うのが嫌で、家から出たくなくなりました。だんだんと更にひどくなって、学法も止め、遊びに溺れました。その後、心がとても空しくなって、やはりまた学法をしたくなりました。年配の同修と交流すると、私の意気消沈は一種の旧勢力の妨害だと教えてくれました。いずれにせよ、私を下へと引っ張って、修煉できなくなるようにさせるのです。交流をした後に私は涙を流し、あの重苦しい感じがだいぶ軽減しました。まずできる範囲で真相を伝えることを始めるように、焦らないでくださいと同修は私を励ましました。
知らない人に向けて口を開いて真相を伝えることができないなら、私は夜に真相資料をポスティングしようと決心しました。
当初、私は母について修煉に入ったのですが、迫害が始まってから母はあまり学法しなくなり、修煉状態は私にも及びません。私は母の状態をとても心配して焦ったのですが、学法を通じて、自分をしっかり修めれば、周囲の環境を変えることができるという法理が分かりました。その後、私は焦らなくなり、努力して自分を修めながら母と一緒に学法しました。ある日、母に「今夜一緒に真相資料をポスティングしない?」と誘うと、母は「行く」と言いましたが、夕食後、母はベッドに横たわって「今日は行かない」と言いました。私は少し不愉快になったのですが、これは旧勢力の妨害であり、母が行きたくないのではなくて、母の背後の邪悪が母に「行かない」と言わせているのだ、とすぐ気づいて、「私は決して妨害されない」と堅く思って、一人で大きいリュックを背負って出ました。
毎回私は一人で資料のポスティングに出ます。私はこれまで母に一緒に行くように強制せず、師父がついておられるからいつか母は必ず大法修煉に戻ってくると信じています。時には一人で5、6キロ歩いてポスティングし、時には電動自転車に乗って10数キロ離れた田舎に行きます。私は誰にも頼らず、いつも一人で行きました。その中で、自分なりの衆生済度の道を探し、他人に依存する執着を取り除いて、自分自身はいっそう成熟しました。
微かに母に対して不満もあったのですが、自分がしっかりしてこそ、母ははじめて大法に戻ってくるという道理が分かっていたので、私はその不満を取り除きました。今、母はすでに修煉を再開して、私と一緒に資料のポスティングに出ています。
論争に陥らず 黙々と円融する
私は市内の同修たちと連絡を取って一緒に真相資料を作るようになりました。その中で私は多くの人心を取り除きました。多くの同修と接触すると、協調の問題が出てきます。私は以前ずっと一人で大法の仕事をして、同修と接触しなかったので、協調に関して師父が説かれた法理は海外の大法弟子に対するものだと思っていましたが、多くの同修と接触した後、そうではないとはじめて分かりました。
ある日、とても困った時に、年配の同修Aさんの家をノックしましたが、誰も家にいないようでした。後日Aさんに聞くと、その日彼女はずっと家にいたのですが、少しもノックの音を耳にしなかったそうです。当時、Aさんに自分の悩みを聞いてもらいたかった私は仕方なく、家に帰って学法をしました。結局、悩んでいた問題は学法する中で答えが見つかりました。修煉において、何かで悩んだ時に最も良い解決方法は学法であり、すぐに同修と交流しないほうがよいと、私はその日のことを通じて悟りました。何かあれば学法をすることを思いつかず、すぐに同修と交流することは、良い習慣とは言えないと思います。同修に依存してしまい、固く師父と大法を信じていないのだと思います。何か悩み事にぶつかると、まず師父と大法に頼るべきです。もちろん、完全に人と交流しないと言っているのではなく、まずしっかり学法をしてから同修と交流するのが最も良いと思います。
同修間の論争に対して、私はできるだけかかわらずに、法理でどうすれば良いかを図ります。私はもともと口数の少ない人間なので、いつも黙々と同修に協力しています。話を少なくして協力を多くするのが私の原則です。トラブルが起きた時に同修の長所を多く考えて、できるだけ同修たちとの間に隔たりを存在させないように努力しています。
学法グループを続ける
現地には6、7人の大法弟子がいて、みんなの修煉状態はあまり良くありませんが、年配のBさんだけはとても精進しています。洗脳班に2度も送り込まれた後、Bさんは地元を離れて田地区でアルバイトをするようになりました。そのため、現地の学法グループを続ける責任を私が引き受けました。
最初、私を含めて3人で一緒に学法しました。私以外の2人は50代の女性で、初回の学法の時、2人は仕事のことや、自分はどのように修煉に戻ったかなど、長くおしゃべりをしました。私は根気よく彼女たちの話に耳を傾けました。彼女たちは集団学法の環境から長く離れていたため、いったん会うと、同修といろいろ交流をしたい気持ちを私は尊重してあげたいのです。彼女たちの言葉に常人の観念がまだ多くありますが、会話を断ち切って自分の基準で彼女たちに要求するのも不適切だと思います。私はただ根気よく耳を傾けてあげました。学法グループは暖かい環境で、ここに来ると一人で学法するよりずっと心地良いと感じさせてこそ、彼女たちははじめて進んで学法グループに来たくなると思います。
だんだんと、彼女たちは修煉と関係がない会話をあまりしなくなりました。今、私は彼女たちに『明慧週刊』、真相紙幣、お守り、MP3などを渡し、定期的に学法して、安定して真相を伝えることを行っています。迫害を恐れて修煉を止めた人も我々の影響を受けて修煉を再開し、多い時は6人も学法グループに来ています。
同修の間では情を取り除くべき
最近、現地の同修2人が病業で命を奪われました。中の一人のBさんは私がよく知っていた同修です。迫害の前、私はBさんと、Bさんのお母さんとよく一緒に学法と煉功をしました。しかし、Bさんが亡くなったと聞いた時、修煉者である彼女はきっと最も良いところに行ったと信じているため、私は涙を流しませんでした。
私はBさんの死を悲しく思ったことは一度もなく、平穏に「三つのこと」をしています。時間があれば、私はBさんのお母さんに付き添います。お母さんが私に泣きついても私はとても冷静で、涙を流したり、お母さんを慰めたりしません。私はただ静かにお母さんと一緒にご飯を食べて一緒に学法します。母親として娘を失うことはとても苦痛な事ですが、私はできるだけ法理を踏まえてお母さんと交流して、余計な慰めの言葉を話しません。Bさんの死はお母さんにとってとても大きな魔難ですが、お母さんが苦痛の中でずっと学法を続けて、旧勢力の妨害を否定するのは本当に容易なことではありません。
その時に、同修たちは次から次へとBさんのお母さんを見舞いに来ています。皆のやり方は情が重すぎると思います。Bさんが病業に命を奪われたことは旧勢力の妨害であり、私たちがもし常人のように見舞いにいくと、旧勢力の妨害を認めることと同じではないでしょうか。また、Bさんのお母さんの情も引き起こしてしまいます。では、周囲の同修としてはどうすればよいでしょうか。お母さんに学法の時間を与えるのが一番良いと思います。そして、現地の同修が亡くなったことは地域全体の損失と修煉上の漏れでもあるので、私たち自身も自分の不足を探さないといけません。同修が亡くなったとき、私たちは更に積極的に衆生を救うべきで、あまりにも悲しみにふけってはいけません。
修煉者は常人のような慰めやお見舞いは要りません。また、修煉者の間では常人のような人情付き合いもしないほうが良いと思います。結婚祝いや、出産祝いをする必要もなく、その祝い金を大法のプロジェクトに使えばよほど良いと思います。また、他の同修の家庭事情や経済力や、お金があるか、車があるかなどについて、とても関心を持つ学習者がいますが、実は全く必要のないことだと思います。修煉者の間の付き合いには、必ず理性と慈悲心が人情に取って代わらなければならず、常人の観念を帯びる会話はしないほうが良いと思います。
同修は一つの全体である
学習者の多い地域には複数の学法グループがあって、学法グループの間にも隔たりが存在していることを私は発見しました。例えば、私自身は長期にわたりAグループで学法して、そこの同修から真相資料をもらって、また自分の給料から定期的にそこの同修に真相資料を作るための資金を提供しています。時に、私が他の学法グループで学法して真相資料をもらうと、Aグループのある同修は少し不機嫌になって、よそのグループから資料をもらえば、お金を払わないといけない、と言ったりします。彼女は「真相資料をもらう時に、お金を払わないといけない」という考え方を抱いています。また、「○○さんはとてもお金を持っているが、資料拠点にお金を出してくれない」とか、「○○さんは私たちのグループで学法をしているが、いつもよその資料拠点から資料をもらっている」などの発言をしています。
私はこう考えています。資料拠点にお金を寄付するかしないか、誰も他人を強要してはいけません。それに関して、師父は説法の中で我々に説かれました。また、学習者は一つの全体であり、派閥などはありません。自分の所在する学法グループの事なら関心を寄せるが、よそのグループは自分に関係ないとか、よそのグループはここから真相資料をもらってはいけない、などの考え方も修煉者らしくありません。それは差別する心ではありませんか。もしも頭の中で衆生の救い済度を第一に考えるなら、これらの人心が生じるはずがありません。そのような考え方は大きな漏れであると思います。衆生を救い済度することは第一のことで、ほかはそれほど重要ではありません。
以上は個人の認識にすぎないので、不適切なところがあれば、皆様からご叱正を仰ぎたいと思います。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/7/3/1885.html)