二言三言:覚者の威厳は憎むことではない
■ 印刷版
 

文/浄心

 【明慧日本2014年11月11日】私の周りにある同修は、家族の人の言動で、ずっと黙って、我慢していましたが、ある日どうしても耐えられなくなって、怒りが爆発してしまいました。しかも、「大法弟子は慈悲ばかりではなく、威厳もあります 」と、自分のために言い訳もしました。

 「怒り」と「恨み」があることは、私たちがまだ情から抜け出していないことを証明するだけです。それでどうして覚者の威厳を言及するのですか? 師父は「相手のことを憎むと、腹が立ったことになるではありませんか? それでは忍を守れなかったことになります。われわれは真・善・忍を重んじますが、そんなことをすれば善のかけらもなくなります。ですから、相手と同じようにしてはいけません。」「愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです。」[1]と説かれました。

 明慧ネットのある文章を私はまた覚えています。文章の中で、ある凶暴な警官は北京に陳情に行った年配の大法弟子を不法に尋問するとき、もともと人を殴り慣れたこの警官はいつも通りに、この年配の大法弟子を殴ろうと思ったとたん、彼女の慈悲な表情と威厳ある態度の前に、無意識で手をひっこめていました。いつもの凶悪残忍な行為は消えてしまい、人を罵ることさえ忘れてしまいました。この年配の大法弟子のことから、私は真の大法弟子なら、慈悲と威厳が同時に存在し、さらに偉大な力を現わすことができます。しかも、すべての邪悪と不正な要素を怯えさせます。

 もし、あなたが慈悲のことを無視し、あなたの威厳だけを強調すると、あなたの「威厳」は覚者の威厳ではなく、ただ常人の魔性を暴露するだけです。プラスになる力がないばかりか、破壊力はものすごいものです。魔はこのようなものを利用し、拡大します。たとえば、かんしゃくを起こしたり、目を見張ったり、厳しく話をしたりすると、私たちの個人修煉と真相を伝えることを阻むことになります。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2003/6/4/51631.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2003/6/18/37090.html)
 
関連文章