最後の時 自身の修煉を緩めてはならない
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文/同真

 【明慧日本2014年11月28日】師父の最新の経文、『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』を学んだ後、私は感慨深かったのです。まず感じたのは、時間が迫ってきていることです。以前から、師父は「時間があまりない」とよく言われていますが、今回、師父は次のように説かれました。「今から修煉状態を変えてください。もう修煉者らしくありません! 以前から言っていますが、あなたたちはいつまで待つつもりですか? いつまで待つつもりですか?! もう時間はありません」

 二つ目に感じたのは、最後になればなるほど自分自身の修煉を緩めてはいけないということです。師父は2009年に次のように説かれました。「初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得ることができる」(『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」)。今回の説法で師父は再び「初心を忘れずに修煉する」との法理に言及されたのは、恐らく師父はここ数年、多くの大法弟子の修煉状態が初心状態からかけ離れているのを見られたのだと思います。

 以下において、この方面に関する自分の体験談を述べたいと思います。不足の部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

  一、情の泥沼から抜け出す

 中学生の時、瓊瑤(けいよう)という小説家の小説が流行っていました。当時の中学生たちは娯楽がなく、瓊瑤の小説を読むのが一つの娯楽でした。私もその小説に夢中になり、感情を描写する多くの手紙などを暗記し、頭には「情」に関する描写が多く注ぎ込まれました。

 修煉して17年来、この類のものが私にとって大きな妨害となりました。なぜなら当時、この類のものがあまりにも多く頭に入ってしまったので、修煉後、意識がはっきりせず、長い間頭からそれをきれに排除しませんでした。映画や、テレビ、あるいは知っている俳優を見たとき、私は頭の中で様々なことを想像し、よく自分自身を劇の中の主人公に想像してしまうことがありました。

 『轉法輪』の中で、師父はある学習者が夢の中で色欲の関を乗り越えられず、のちに後悔してしまう事例を挙げられました。私も時々色欲の関を乗り越えるのを夢の中で見ます。現実生活の中ではきちんとできても、夢の中ではなかなか乗り越えられず、その中で無我夢中になり、時には目が覚めるのが早すぎると思うこともありました。その後、私は邪悪による迫害を受け、7~8年も監獄生活を送りました。この方面でしっかりと修めなかったことと大きく関連すると思います。

 獄中で、私はずっと反省していました。しかし状態は良くなったり悪くなったりしました。出獄してから、師父の按配により私はある企業の管理職に就きました。社内に70~80人もいる中で、男性は僅か3人です。毎日女性と接するのは師父による按配で、私の色欲心を取り除こうとされていたと思います。毎日女性の中にいると、行為では修煉者の基準で自分を律することが出来ますが、時々頭の中でいろいろ妄想しました。

 一度、私はある社員に良い印象を持つようになりました。しばらくすると、その社員からこのようなメッセージが送られました。「ちょっと寂しいので、退社後同伴してもいいですか?」。これを受け取って、私は内に向けて自分の考えを見直し、自分の正しくない念がこのことを招いたと気づき、彼女を呼んで、真相を伝え、自分の身分を明かしました。このチャンスに彼女は三退し、私は彼女を救うと同時に、自分も解脱しました。

 その後、もう1人の社員が数回にわたり私を誘うメッセージを送ってきました。私はやはり自分のこの方面の執着がまだきれいに取り除かれていないと思い、その根源まで深く掘り下げ、色魔による全ての妨害を排除するように発正念をし、すぐにこの関を乗り越えました。今は、どんな情や色欲の内容であっても、私は全く興味を感じません。

 慈悲なる師父の巧妙な按排、そして洪大な大法によって私は情の泥沼から抜け出せたと思います。

 二、恨む心を取り除く

 わが家は三代にわたり中国共産党の迫害を受け、私は小さい頃からこの党に好感を持った事がありませんでした。中学生の時、私は「六四運動」で迫害を受けている学生たちに同情し、この党を恨んでいました。

 黒巣に不当に収監されていた時、私は全ての警官を敵だと思っていました。ある日、警官に一冊の『轉法輪』を押収されました。そこから出て以来、この件を思い出す度に私はその警官を恨み、何かの常人の方法で彼をいじめようと考え、彼を殴ってもいいと思いました。その後、この念がますます強くなり、座禅するときも考え、法を暗記するときも心を静めることができませんでした。

 法理から分かったのは、警察、公安、検察、刑事達も迫害を受ける側で、法を正す中で救われるべき衆生です。しかし、「恨む心」に駆られ、以前の私は警官を見るや否や邪悪と見なし、彼らを普通の常人だと思えず、当然、彼らに対する慈悲心も持てませんでした。実際、多くの警官も邪悪にコントロールされて大法弟子を迫害してしまったので、彼らの背後にある邪悪の要素を綺麗に排除してあげれば、多くの警官は真相を知ることが出来ます。しかし、この「恨む心」が取り除かれていないために、この法理が分からず、自身の向上が得られなかっただけでなく、衆生を救う大きな妨げにもなっていました。

 師父は『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』の中でおっしゃいました。「迫害に参与している部類であっても、騙されてやっているので、彼らにも優しく接してあげなければなりません」。この「恨む心」の危害がはっきり分かってから再び衆生を見ると、どんな職業の人でも可哀想に見え、救うべき対象であり、分別心が無くなりました。法理が分かって以来、私は以前どうしても気にしていた人や事に対し淡々となることができて、全ての衆生が真相を知って救われるよう心から望むようになり、大法の無限な慈悲と素晴らしさを実感し、法に対して堅い信念が生まれると同時に、衆生を救う緊迫性も感じました。

 三、利益を追求する心を徹底的に放下する

 修煉当初、私は自分を厳しく律し、他人から贈られるプレゼントを一切断り、たとえ受け取ってもまた別の人に譲るようにしていました。しかし最近の自分はこの方面において、修煉当初の状態からかなりかけ離れています。私は管理職として、社員の福利厚生の配分を担当しています。社員の人員変動が激しく、福利を配る際、人数は当初の統計した数字より少なくなる場合が度々あります。時には、私は余った福利品をオフィスに残し、使うようにしていました。最近気づいたのですが、この行為はやはり人間の狡い心理作用の結果でして、オフィスに残すのは、誰のために残し、誰が使うのですか? やはり自分が使うのでしょう。持って帰って私物にするのとまったく違いがありません。

 長年邪悪に不当に監禁され、戻ってきてから生活のあるゆる方面において困窮感がありました。そのために、「利益を求める心」が生まれました。上記の経験から得た認識は、「利益を求める心」は本来一つの変異した生命で、世の人々はそれにコントロールされて狂うようになり、法を正す時期の大法弟子がそれに妨害されれば自身の向上が得られず、衆生を救う一大事にも影響されてしまいます。

 私たちの心に貪る心があれば、「利益を求める心」という悪魔は私たちの脳を翻弄し、精神的に左右し、人間の精華を吸いとり、人間の智能を丸呑みします。師父はおっしゃいました。「いかなるものもこの世に立脚し、存在でき、成り立つには必ず肝心な要素があるわけです。つまりこの空間において一つの場を形成しなければならないことです。この場は物質的な存在です」(『ヨーロッパ法会での説法』)。自分には「利益心」があって、それが邪悪に物質的存在の場を提供し、それゆえ邪悪は様々な形で大法弟子を妨害、あるいは迫害することができるのです。

 修煉は本当に厳粛なことです。毎日、私たちは自分の一つの念、一つの考えをしっかりとコントロールし、法に符合しない変異した念があればただちに発正念し、それを排除しなければなりません。そうでないと、大変な災いに遭うことになります。人間と神の念は紙一重です。少し自分を緩めるだけで、人間に戻ってしまいます。時には自分をリラックスさせ、人間の方に少し近づかせるだけで、少しで堤防を崩壊させてしまうその蟻穴になるかもしれません。

 人間社会は大法弟子の修煉の場です。しかし忘れてはならないのは、人間社会には旧勢力が按配した法を迫害する要素も充満しています。それに正しく対処しなければ、人間社会は迫害の場になりかねません。この場から抜け出し、自分を良く修めると同時に衆生を救うためには、入門当初の修煉の意志を貫かなければならず、常に大法をもって判断し、はじめて道を正しく歩むことができます。

 師父は『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』の中でおっしゃいました。「ですから、皆さんの今のこの心と気持ちを保ち続け、大法弟子らしくなるようにと期待しています。形勢は差し迫っています。これほど多くの生命が皆さんに救われ済度されることを待っています! 私は非常に焦っています!」。大法を得た当初の自分の敬虔な心を思い出し、今の自分と比較し、この最後の時に、私は自分の修煉を緩めてしまったのではないかと思います。師父が焦られることのないよう、今この瞬間から自分を変えましょう。修煉当初の強い意志を、円満成就できるまで貫きましょう!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/4/299863.html)
 
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