正念を堅め 自分を良く修め 大法を実証する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年12月8日】

 一、縁を結ぶ

 私は1997年3月7日に大法と出会いました。不思議なことに、45歳だった私は、良い会社に勤め、良い仕事を持っているにもかかわらず、なぜか仕事を辞めて家にいたくて、結局早めの定年退職を申し入れました。退職してから一週間も経たないうちに、私は突然高血圧による冠状動脈性硬化症を患い、病院の救急に運ばれました。

 数日後、親戚が見舞いに来て、こう言いました。「私は数か月法輪功を習ってから痔が治りました。あなたも習ってみたらどうでしょう。きっと治りますよ」。私は何も分からず、すぐに「いいですよ」と答え、こうして、私は大法と縁を結び、修煉の道を歩み始めました。

 修煉の当初、私はすごく精進していました。煉功に行って皆と一緒に煉功し、学法しました。『轉法輪』を一通り読み終えた時、私はこの法の素晴らしさに感心し、まるでずっとこの法を待っていたかのように感じ、修煉とは何かがすぐに分かり、貪るように学法に没頭しました。

 グループ学法から帰宅後、私は学法を続け、一日に『轉法輪』の3~4講、あるいは4~5講を学びました。買い物にも行かず、師父が『精進要旨』の「法の中に溶け込む」の中でおっしゃったように、「しかも、あとになって入ってきた人は、感性の上での認識において、より優れている傾向があります」のようでした。二年あまりの集中学法は、私が1999年以後に起きた迫害の中で法を実証することにおいてよい礎となりました。

 二、大法を守る

 1999年に迫害が始まり、師父の法が私の頭に浮かんできました。「そうであるならば、修煉者として一切の有利な条件を利用して、大法を広め、大法が正しいもので、真の科学であり、説教と唯心論ではない、ということを実証しなければなりません」 (『精進要旨』「実証する」) 紆余曲折を何度も経て、私は北京に辿り着き、命を持って法を実証しようと考えました。私は数名の同修と一緒に天安門で横断幕を張り、北京の公安局に不当に連行されました。そこで私は何も言わず、自分の知っている法理のみ彼らに言いました。「キリストは2000年前にユダヤ人によって十字架に磔にされ、ユダヤ人は未だその罪を償っています。佛法は永久不変なもので、誰も迫害できません」

 翌日、私は会社の人に家に連れ戻され、帰宅後に私は怖くなりました。その後、私は教えを受けている弟子であることを師父によって啓示され、安心し、よりよく行うべきだと気づきました。迫害が最もひどい時期に、私は家にいた時、または真相資料を配っている時に5~6回も不当に連行されました。毎回、私は正念を持って心の中で思いました。「誰も私をコントロールできません。私には師父がおられます。師父が全てを決められます」。留置場の中で、私は三回にわたって断食しましたが、彼らは無理に私に灌食できませんでした。師父のご加護の下、私は身体検査が不合格という形で家に帰ることができました。

 2002年旧暦の12月27日に、警官は私の家を訪ね、修煉を続けるかと聞き、私は修煉し続けると答えました。それを理由に私は再び留置場に不当に連行され、私は断食の形で迫害に抗議しました。三日目、彼らは私に灌食しようとして、身体検査に出したところ不合格となり、点滴を打とうとしました。点滴を拒ん だ私に、所長は偽善な顔をしながら、私に水を飲むよう勧めました。私は、「水は飲みません。家に戻りたいです。家で人を捕まえるのは本来違法行為です。それに、私には面倒見を必要とする半身不随の老人もいます」。所長は、「先に水を飲んで、それからあなたの案件を処理しましょう」と言い、私は、「水はいりません。一日、一ヵ月、一年だって待ちます。処理して下さい」と答えました。その後、所長は私を自分のオフィスに呼び、私はずっと彼に真相を伝えました。最後に彼は、「俺は知らない。江沢民に訴えろ」と言いました。

 この時、ある警官が入ってきて、私の案件が撤回されたと言いました。私は立ち上がり、彼らに言いました。「大法弟子に優しく接すれば福報を得られます」。彼らは何かを言おうとしましたが、口を開けたまま固まってしまいました。その時、別の警官が入ってきて、「あたまはもう帰って良いです」と言いました。

 家に戻ったとき、ちょうど大晦日の午前10時ごろでした。私は簡単に片づけをしてから主人と一緒に、新年を迎えるために姑の家に向かいました。私は心より師父の慈悲なる済度に感謝し、師父のご加護により私はなお修煉の道を真っ直ぐに進めます。

 三、師父が要求されていることなので、何を恐れますか?

 一回、私はある同修の家を訪ね、彼はちょうど真相資料を作っていました。私にはコンピュータの知識が全くなく、彼は一から私にコンピュータとプリンタの操作方法を教えました。当時、大きな資料拠点以外、個人的な小さい資料拠点はほとんどなく、私は一つ作ろうと思いました。私は一台の機器から始め、のちに四台の機器を同時に操作することになりました。

 当時、一台のコンピュータに四台のプリンタで同時に印刷するため、すごく集中力を必要としました。資料を求める同修が多く、一人の同修は印刷済みの資料を外へ配ることを担当し、もう一人の同修は私にコピー用紙を供給してくれました。毎回、彼は十数箱のコピー用紙を持って来て、ちょうど私は一階に住んでいるので、ドアを開けながら、心の中で師父にお願いしました。「師父、今からコピー用紙を入れますので、誰にも見られないようにお願います」。こうして、師父の加持の下、私の資料拠点は今日に至り安全に運営されてきました。

  修煉の中で心性の試練もあります。ある日、某同修から、「今晩、警察による厳しい捜査がある」と聞き、自分も「目を付けられている」ものだと思い、機械をほかの所に一時的に隠そうと思いました。物が多く、どこに隠すかをいくら考えても良い方法がありませんでした。最後に、この考えが間違っていることに気づき、隠さないことにしました。師父が要求されていることだけに、誰にもこれを動かせません。そう思って私は落ち着きを取り戻し、結局何も起きませんでし た。

 四、内に向けて探し、恨む心を取り除く

 修煉の過程において、良くできない時もあります。心性をきちんと保てず、人心や観念が多く、私は旧勢力に隙に乗じられました。

 2008年、私の息子は離婚しました。平素から、私は情をかなり放下したと思いますが、しかし、嫁が紛争を起こしに来るたびに私は鼻血を出します。血が止まらずに流れてきて、渡されるティッシュを使わずに捨てて、私はほかを考えず、ずっと発正念をしていました。

 夕方6時から夜11時半まで、鼻血が止まらずにずっと流れてきて、血が詰まった感覚を覚えた直後、私は意識を失い、倒れました。倒れる直前に私は心の中で師父を叫びました。「師父、助けて下さい!」 結局主人と同修が一緒に私を呼んでも私は目覚めませんでした。

 その後、主人は力一杯私の背中を4~5回くらい叩き、私は口から大きな血の塊を吐き出し、すぐに意識を取り戻しました。ズボンに漏れていた排泄物を処理してからちょうど夜中の12時でした。私は何も恐れず、いつもの通り発正念をしました。

  当時、内に向けて探さず、深く考えなかったため、その一週間後にまたも同じことがやってきました。今回は前回よりもっと激しかったのです。夕方6時から夜中の12時までずっと鼻血が出っ放しでした。私は内に向けて探してみましたが、何も見つからず、ただただ師父と大法を堅く信じることしか知りませんでし た。

 二回にわたり鼻血を出し、毎回5~6時間続き、師父は二回も私を死の崖ぶちから救って下さいました。師父への感謝の意を表す言葉も見つかりません。

 今回、私は真剣に内に向けて探し、自分の怨む心が見つかりました。修煉は厳粛なことです。法を必ず良く学び、着実に自分を修め、初めて関を乗り越えることが出来ます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/31/299525.html)
 
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