「忍」についての体得
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年1月16日】大法の修煉は「真・善・忍」を同時に修めます。この数年間の修煉状況を纏めて見ると、私は「忍」を修めることにとても苦しみ、またとても難しく感じ、多くの関を乗り越える時、忍べませんでした。まさに師父の説かれた「忍とは心性を高める鍵です」[1]という通りでした。

 師父は「とりわけ「忍」ができなければならないことが強調されます。「忍」ができてはじめて、修煉して大徳の士になれます。「忍」は非常に強いものであり、「真」と「善」を超えています。修煉の全過程を通してあなたは忍耐しなければならず、心性を守って、妄りに行動してはなりません。」[2]と説かれました。

 師父はまた「『殴られてもやり返さず、罵られても言い返さない』、これは修煉者としての行いに対する最も適切な表現です」[3]ともおっしゃられました。

 例えば、突然誰かに名指しされて罵られたとき、平然としていられますか? また、公の場でビンタを食らわされて、面子を失った時、耐えられますか? まさに師父の説かれたように「ここに座っている皆さんの中に、突然誰かに名指しされて罵られたとき、平然としていられる人が何人いるのでしょうか? ほかの人に指摘され、批判されたとき、心が動じることなく自分の原因を探す人が何人いるのでしょうか?」[4]でした。

 「忍」は確かにとても強いものであり、それを成し遂げることは容易いことではなく、徹底的に実現するには苦しい過程が必要です。

 (一)初期にはまず「押し殺し」、無理に我慢する

 師父は「あなたはその人に感謝すべきですが、かえってその人を恨み、その人に対して我慢できず、それは間違っています。またある人はこう考えます。師父が私に耐えろといったので、私は怒りを抑えてみましょう。しかし時間が長くなると、あなたは「先生、私は抑えて抑えて、大変苦しいのです」と言うでしょう。私が見るところ、それは忍ではありません。真の修煉者は少しも怒ることはありません。どれだけ大きなことでも心は動じません。これこそ修煉者です。なぜ苦しくなるまで抑える必要がありますか? また面子を気にして我慢する人がいますが、これも本当の忍ではありません。しかし修煉している人は、今の段階で要求に達することができなければ、やはり少し抑えて我慢したほうがよいでしょう。」[5]と説かれました。

 私はこのように認識しました。初期の修煉においては、トラブルを乗り越えるなか、少なくともまず「押し殺す」ことで、無理に我慢するようにします。あなたは必ず決心して、歯を食い縛り、反撃せず、反発せず、解釈せず、例え心が落ち着かず、顔色が見難くても、ひいては目に涙が浮かべていても、一言も言わず、淡々と頑張ります。欲望を抑えることにおいては、例えば、性欲、色欲、情欲、食欲、及び各種の癖に対して、腹を決め、その欲望や邪念に向けて、はっきりと伝えます「絶対きみの思いのままにさせない、きみが目的を達成できないようにさせる。『きみ』は私ではない。『きみ』は私を誘い出すことができない。私は「きみ」を取り除く」と!

 実質上、押し殺し、無理に我慢することの特徴は「心が動じながら忍ぶことです」です。修煉とは人心を取り除くことであるため、必ずその心を強烈に刺激します。この心は苦しめられます。各種の欲望の誘惑のなか、その心は動こうとします。しかし、あなたがそれを忍ぶことができれば、即ち、気性を制御でき、情緒を制御できて、つらい思いを発散せず、忍べなかった事実になっていなければ、それも忍べたことになります。しかし、師父は「一応は耐えられたとしても、内心では落ちつかないようでしたら、それでも駄目です」[6]と説かれました。

 (二)修煉者の基準を満たす本当の忍に至る

 中国社会には「小忍ばざれば則ち大謀を乱る」(訳注:出典は孔子『論語』で、「小さな我慢が出来ないようでは大きな仕事を仕損じる」という意味。しかし現代中国では、「大きな悪事を働くために小さな悪事を我慢する」という意味でも使われている)という名言があります。これは常人の狡猾な忍です。また現在、常人の中では「地球人と同じ見識を持たない」という笑い話があります。それも忍のことを指しています。しかし、地球人であれ、他の星の人であれ、なんと言っても人間に過ぎず、やはり人間の忍です。哲学者のソクラテスは、がみがみ女を妻に迎えました。ある時、彼の妻はまた彼に吠え罵ると、ソクラテスはそれを避けて家を出ました。彼が窓の下を歩いていた時、突然ひと盥の汚水が上から彼にかけられました。その時、濡れネズミになったソクラテスは、ユーモアに富む話をしました。「雷が鳴り、稲妻が走った後は、必ず土砂降りの雨である」と。ソクラテスは聖人であって、その次元も低くなかったです。我が国の古代には、ふたりの大禅師、寒山と拾得の間にはこういう対話がありました。寒山は拾得に「世間に私をそしって、私を辱め、欺き、笑い、軽視し、私を安っぽくみる人がいます。どうしたらよろしいですか?」と聞きました。拾得は「ただ彼に忍び、彼に譲り、彼を避け、彼の思いのままにさせ、彼に耐え、彼を相手にしなければよいのです。数年経ってから彼の様子を見てください」と答えました。この対話はとてもすばらしいです。以上の事例は私にとても参考になります。しかし、法を正す時期の大法弟子の修煉の目標、責任と意義は、これらの小道の修煉者と比較できません。私たちが修煉しているのは宇宙全体です。

 本当に基準を満たした忍を実現するには、まず必ず学法をしっかりしなければいけません。ただ大法だけが全て事をやり遂げることができます。絶えず大法を頭に打ち込むと、それが心に入り、脳に入ります。ただ法に溶け込むことができれば、どんなこともうまくいきます。

 第二は、いつも私達が法を正す時期の大法弟子の重大な責任を思い出すことです。もし私達が位まで修煉できなければ、どうやって私達の誓約を実現できるでしょうか。どうやって私達の世界の衆生を救い済度できるでしょうか。しかし彼らは長い歳月のなか、ずっと切に待望んでいました。彼らのために、まだ忍べないことがあるでしょうか。

 第三は、必ず度胸を大きく広めるべきです。師父は何回も私達に宇宙、天体、大窮の構造と浩瀚さについて説かれました。それは私達が更によく修煉するように、私達の視野を広げるため、度胸を拡大するため、容量を増加するためです。私達にはこれほど大きな法があります。それに比べて、常人の中の不公平、皮肉、侮辱、および無実の罪を着せられることは何者でもありません。とても小さく、とても小さく、あまりにも小さいです。

 第四は、すべてのトラブルに対応し、処理する際、「内に向けて探し」、しかも完全に内に向けて探し、無条件に内に向けて探します。修煉者が遭遇した、いかなることも、私達の修煉のためにあるのです。あなたにその心があるから、そのことが発生し、すべては師父の苦心の按排です。こうして、私達は少しずつ良い状態に入ります。皮肉が来たら、それを納得し笑います。打撃が来ても、何事もないように対応します。誘惑が来ても、心は動じません。どんなに大きなことでも心に入れることなく、修煉者の基準を満たす忍をやり遂げます。

 (三)絶えず更に高い次元での大法の忍の内涵を体得する

 大法の忍には無限に奥深い次元と内涵があります。私は現在、ただ3つだけ体得しました。

 (1)大法の忍は慈悲と威厳を共にします。法を正す時期の大法弟子として、私達は師を助けて法を正し、大法に圓容しなければいけません。大法は慈悲と威厳を共にします。まさに師父が説かれた通り、「忍とは意気地がないことではなく、ましてや理不尽な待遇を耐え忍ぶことでもありません。大法弟子の忍とは高尚なもので、偉大で堅固にして破壊しえない金剛不動の生命の現れであり、真理を堅持するための寛容であって、まだ人間性があり、まだ正念のある生命に対する慈悲であり、救いです。忍とは決して限度なく放任し、それらのすでに完全に人間性を失い、正念がない邪悪な生命に、節度なく悪事を働かせることではないのです」[7] 私達は大法弟子を迫害する邪悪勢力に対して動揺せず、根絶すべきであり、正念と功能で邪悪を全滅させるべきです。人間性がなく、正念がない邪悪生命が現世で報われるようにすべきです。

 (2)大法の忍は素晴らしい境地をもたらします。私達は大いに忍んだ後、「一挙四得」[8]するだけでなく、風雨が過ぎ去った後、万物が新しく生き生きとなり、天清く体も透き通る感覚を覚えるでしょう。また物を忘れ、我をも忘れ、全てを放棄でき、人間世界の全てはあまりにもちっぽけなものと思われ、少しずつ無、空の境地に入ります。それは本当に美しい境地です。

 (3)大法の忍の偉大で永遠な宇宙意義を深く理解しました。宇宙の根本特性は真・善・忍です。真・善・忍の特性を備えるからこそ、原子物質、原子微粒子、あるいは本源物質を集めて、結合させ、一緒に存在させ、絶えず発展して、万物を形成し、すべてを形成し、宇宙を形成することができます。宇宙の一員として、ひとつの成分として、ひいては一つの粒子として、あなたは必ず真でなければなりません。物質から特性まで紛れもなく真です。同時に善でもあり、至善です。しかも譲るものであり、忍耐し、包容し、包括します。これこそ無私無我であり、人を先に自分を後にすることであり、共に生存することができます。彼らは宇宙の中、最も正の生命です。さもなければ、必然的に互いに排斥し、最終的に解体します。宇宙の根本大法、真・善・忍は宇宙の永久の特性を備えています。自ずとすべての正しくない状態を正し、絶えず修復し、宇宙に圓容し、宇宙が金剛不壊になり、永遠に成り、住み、永遠に存在するようにさせます。

 僅かな体得であり、不適切なところについては同修のご指摘を願います。

 注:
 [1]  李洪志師父の経文:『精進要旨』「忍とは何か」
 [2]  李洪志師父の著作:『法輪功
 [3]  李洪志師父の著作:『米国東部法会での説法』
 [4]  李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [5]  李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』
 [6]  李洪志師父の著作:『轉法輪
 [7]  李洪志師父の経文:『精進要旨(二)』「忍の限界」
 [8]  李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/29/300884.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/12/25/147440.html)
 
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