真我を区別し、落ち込まない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年1月26日】近頃、私は同修との関係において、多くの欠点を持っていることに気づきました。たとえば、よく焦ったり、人に何か言われたら、すぐ爆発したり、怠けたりなどの現象で、以前よりもっと酷くなることもあります。自分の修煉状態は非常によくないし、修煉者らしくないことを明らかに認識していますが、どうしても抑えることが出来ませんでした。怒りを爆発させた後、非常に苦しく感じ、非常に後悔しました。

 ある日、かんしゃくをおこした後、母(同修)と交流した時に、師父の説法を思い出しました。師父は「お互いに協力し合うとき、人心があるから摩擦が生じるのであって、それは修煉者の状態であり、過程です。決して誰それが本当に良くないのではありません。良くできた部分はすでに見ることができず、隔離され、皆さんが見たのは永遠に修煉がまだできていない部分です。しかし、皆さんは慈悲心を持つべきであり、固定した見方で相手を見てはいけません。私は再三に、良くできた部分を皆さんは見ることができず、その部分はすでに非常に良くなり、基準に達したと言っています。基準に達した部分はどういう状況でしょうか? 神の基準です。良くできていない部分は表面に進めば進むほど、ますます悪くなりますが、彼の修煉はすでに良くできています。皆さんが自分自身や相手、そしてこの環境を大切にするよう望んでいます。歩んできた道を大切にするのはつまり、あなた自身を大切にしているのです。」[1]

 私たちはこのように修煉しています。よく修めた一面を隔てていて、本当の自分は真、善、忍に符合していますが、曝したのは全部執着心です。しかも、表に近づけば近づくほど良くないところが現れてきました。

 法理が分かれば、自分に自信を取り戻したようになった気がしました。落ち込むことなく、体中に力いっぱいになりました。私は必ず魔性を取り除くことが出来る、あれは自分ではないと固く信じています。

 同修の立場から、人の不足に気づいた時、善意をもって相手に忠告していいのですが、結論を下してはいけません。同修を決めつけて見てはいけません。そうでなければ、マイナスな一面が生じてしまい、同修の修煉に難を加えることになります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/12/21/301782.html)
 
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