文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年4月24日】『明慧週刊』第690号の『一人の仙人から見た大法弟子』を読んで、啓発されました。私たちは大法弟子として、修煉して十数年経った人も、二十年経った人もいますが、師父と大法への固い信念は動揺してはいけません。しかし、それぞれの信仰と固い信念は異なる次元のもので、度合いが違うので、同じレベルではありません。一部の大法弟子は少しも信じないのではなく、要求に達しておらず、漏れがあり、深く、固く、純粋に信じていないところがあります。いつも迷って動揺したり、様子を窺ったり、試してみたかったり、心に疑う気持ちがあります。修煉の中で様々な具体的な問題に遭遇した時、これらの心が表れ、いつも自信がないことがあります。
困難に遭う時、自信不足で、自分が克服できるかどうかと疑います。関を乗り越える時、心細くて、自分が乗り越えられるだろうかと疑います。真相を伝えるプロジェクトを進める時、自分がちゃんとできるかどうか不安に思い、自分を疑うのです。ネット封鎖を突破する方法を覚えられず、明慧ネットからの資料のダウンロードを同修に頼ります。自分でパソコンから印刷することができず、同修に印刷してもらいます。特に病業が現われる時、自分が乗り越えられるだろうか? 奇跡が自分の身に現われるだろうか? やはり病院へ行って治療してもらったほうが確実だろうと疑うのです。あるいは自分がまだよく修煉できていないから、今回は先に治療して、治ってから再びよく修煉して、次回から病院へ行かないようにしようと考えてごまかします。結果は旧勢力の按排を放任して、次元を落とし、挽回できない損失をもたらしてしまいました。
師父は「弟子の正念足りれば 師に回天の力有り」[1]と説かれました。正念が足りるためには、まず師を信じて法を信じる念が足りなければなりません。これは正念の前提条件です。信じることに問題があり、動揺、迷い、様子を窺う、試してみるなどの心が生じれば、正念がどうやって現われ、発揮できるでしょうか? 正念が作用を発揮できなければ、旧勢力が必ず隙に乗じて、かれらの按排を実現するのです。そのため、困難は本当に困難になり、難は本当に難になり、病業の虚像が本当に常人の病のように発展していきます。この時になると、更に悟りにくくなり、かえって自分の考えが正しかった、本当にこうなったと思うのです。そのために悪循環に陥り、知らず知らずのうちに旧勢力の按排に従って行きます。
師父の言われる通りに、大法の要求の通りに行なうのは、弟子個人の事ではなく、それは師父の慈悲、大法の威力なのです。弟子が大法を実証し、威徳を樹立するのです。これは決して常人の所謂「謙虚、話を断言しないように」などの観念で対処する問題ではありません。
師を信じ法を信じるのは、法理を固く信じるだけでなく、大法の威力を固く信じ、自分が大法を実証する結果を固く信じることも含んでいます。宇宙は大法が作り上げたので、大法に従って行なっていくのは、つまり宇宙の真理、宇宙の規律に従って行なっており、行なう結果も必然的なもので、疑ってはいけないのです。
以上話した現象は自分にも多かれ、少なかれ存在しています。『明慧週刊』の文章を読んで、更に自分が師を信じ法を信じる面の不足を反省して、口だけに留まらず、曖昧な状態に満足しないように、内に向けて探し、まず師を信じて法を信じる面においての差を見つけて、正々堂々と最後の道をよく歩んでいきます。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」