「なぜ精進しないのか」を読んで感じたこと
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文/中国の大法弟子

  【明慧日本2016年8月6日】師父は私たちに、「『師は入り口まで導くが、修行は各自にあり』と言われているように、すべてあなた自身がどのように修煉するかによります。修煉できるかできないかということは、あなた自身が忍耐することができるかどうか、代償を支払う ことができるかどうか、苦しみに耐えられるかどうかによって決まります。いかなる困難にも阻まれないほどの固い決意を持っていれば、何の問題もないでしょ う」[1]と諭されています。しかし、私は法を正すことが終わりに近づいてきた今でも、修煉において、根気よく精進し続けることができていません。

 一、安逸を求めて、苦を嘗めることができず、惰眠を貪る

  私は普段、毎日平均3時間の睡眠しかとっていないため、昼間は眠くなります、通常はちょっと仮眠を取れば回復しますが、時には朝起きる時間になっても、起きたくな いと思い、二度寝してしまうこともありました。真相を伝えても、迫害されることを恐れて、風に吹かれ、太陽に晒されることを嫌がりました。一旦邪悪の妨害や、人に尾行や監視されていることに気づけば、びくびくして怖じ気づき、表に出て真相を伝えることを中断してしまいます。明慧ネットの同修の交流文章を見ると、大勢の同修は表で真相を伝える時に、一年中雨風を問わず堅持している姿は本当に素晴らしく、感服させられます。しかし、私は恐れる心が生じる時に、たとえ表に出ても恐れて真相を伝えることができず、真相を伝えても、相手は聞こうとしませんでした。ここ数年、会って直接真相を伝え ることは断続的にしかできず、「三退」を勧めて、成功した人数はわずかで、平均1日に3、4人にとどまっていました。

 二、テレビを見ることに執着

  退職する前から、私はテレビドラマと流行歌に執着して、自分の修煉に大きな障碍をもたらしま した。頭の中には常にドラマの人物や話でいっぱいで、かつて情魔の妨害を受けたことがありました。情魔に対する恐怖の気持ちが抑えきれ ず、常に寝床に入る前から怯え始めていました、怖くて、夢から目が覚めることもしばしばありました。師父に助けを求めても乗り越えられませんでした。内に向けて執着を見つけ出し、改めようと正念を固めてから、初めて乗り越えることができました。

 はやりの曲を聴く のも好きでした。ドラマ『紅楼夢』のテーマ曲など特に好きなアルバムであれば最初から最後まで一気に聴いてしまいます。ある日、夢の中で見知らぬ男性が長いチャイナ服を身に纏い、顔は覆われて生気を感じられず、野原で二胡を弾いていました、二胡の大きな音色で私は夢から目覚めると、 頭の中にその二胡の音が充満していました。それから、私はそれらの曲に対する執着を徹底に取り除くことにしました。

 しかし、最近 のドラマは、自分の何らかの執着心に迎合しているようで、ほとんど鑑賞していましたが、今はほぼ観なくなりました。徹底することができず、時々、自分 の興味のある番組はやはり観てしまいます。このような状態は師父の教えに従っていないと認識しているものの、心の中では「大法を修煉しているため、やむを得ず政府の大法に対する誹謗中傷に欺瞞された妻に離婚を告げられた自分は、十数年来ずっと独身で、家事に追われることもなく、定年退職して以来、すべてを大法修煉に費やしてきたので、わずかに常人の生活を送っても差し支えない」と思っていました。そのために、食事を摂っているときでもテレビをつけて、食べながら観ており、大切な時間を無駄にして、精進することが出来ませんでした。

 三、人に指摘されたくない

  人に指摘されたくない、人に褒めてもらいたい、褒め言葉を聞けば、心地よく感じ、非難の言葉を耳にすれば、嫌な気持ちになります。言葉には出しませんが、心の中では煮えくりかえっていました。常に他人から被害を受けて、自分はつらい思いをさせられた側だという考えでした。しかし、師父の要求の「まったく怒り恨むことなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[2]に沿ってできなかったため、本来、これらの試練は向上する機会であることにを認識できず、遅々として向上できませんでした。甚だしきに至っては、落ちていく一方でした。常に大法を修煉する私を若い、綺麗だ、気質が抜群だと褒めていた人たちも、口を揃えて、私のことを醜くなった、年を取ったなどと言い始めました。

 ある日、私は夢を見ました。夢の中で、師父は大きなバインダーを持ち、合格できる大法弟子を調べにこられました。私は師父の前に立ち、 師父を待っていました。私の周りに座っていたたくさんの同修が首を長くして私を見ていました。師父が私を見て真剣な表情で「あなたは不合格、何一つ 関を乗り越えられなかった」と仰って去られました。

 私はぱっと夢から覚めました。慚愧に耐えない気持ちでいっぱいでした。夢の中の光景を振り返り「自分は精進しておらず、良く修めていないため、地元の同修にまで影響を及ぼした」と悟りました。それから、私は自分を真・善・忍の法理に従うことを以前より重視して、「怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶこと」[2]のような心を徐々に取り除き、真に忍び、真に修め、常に修煉者に偶然なことはないと注意し、さらに、同修たちと交流し、助け合い、みんなで一緒に向上できるようになりました。そして、私の心はすっきりして、外見も元通りになりました。

 すべての精進できていない同修たちも、その根源を探ってみてはどうでしょうか。

  まず、最も深刻な問題は責任感がないことです、自分に対し、衆生に対し、自分を済度してくれる大法、師父に対し、無責任だと思います。皆さん考えて見て下さい、これほど素晴らしい師父と大法が私達を救おうとしているにもかかわらず、自分の怠慢のため、円満成就しなかったら、どんな損失をもたらしてしまうでしょうか? 計り知れません。

 それから、品行の問題です。信用できない、言うことが当てにならない、ずる賢い、最小限の誠実さにも欠ける性質は諭じるに値しないのです。

 三つ目は、朽ち木のように役に立たない性質です。原因として考えられるのは、大きな業力や、悟性が悪く、常人社会に深く迷いこんでいるなどの原因があると思います。

 私たちにできることは、直ちに大量に学法し、自分の精進できない原因を探り出して取り除き、全力を挙げて、向上できるように頑張ることです。

  師父が「もし自分の行いが、すでに大法弟子として、ふさわしくなくなったならば、皆さん考えて見てください。この天地開闢以来、かつてなかった慈悲と佛の洪恩の下でも、いまだにしっかり行うことができなければ、どうして次の機会がありえますか? 修煉と法を正すことは厳粛なことで、この時期を大切にできるかどうか、ということは、実は、自らに対して、責任を負えるかどうかのことになります」[3]と仰いました。

 最後に、皆さんと一緒にもう一度師父の教えを復習したいと思います。「時間は差し迫っています。師父は皆さんを喜ばせるようなことばかりを話したくはありませ ん。励ましの言葉は本当にたくさん話しました(師父が頷きながら、話を中断して会場を見回される)。しかし、本当にたくさんの人が落ちこぼれ、付いていけなくなったら、私は大法弟子のことを言っていますが、それこそ最も心が痛むことです」[4]。「大法弟子は師の衆生を救うことを手伝うという責任を持って 世に降りた神であり、下界の衆生を救い済度する責任があるのです。個人の修煉が良くできなくても問題がなく、歴史上の修煉方法と同じだと思い、そのためあまり精進していない人、修煉しているようで実はしていない人がいます。しかし、考えたことがありますか? この世に来た時、かつて私と誓約を交わしたのです。それらの衆生を救い済度すると誓ったから大法弟子になれて、このことを行なうことができたのですが、あなたは誓約を果たしていません。あなたは誓約を全部果たしていません。あなたが 受け持つ背後の、あなたに割り当てられたそれらの数え切れない衆生、厖大な生命群でさえ救い済度することができなければ、それはどういうことですか?! 単なる修煉が精進していないだけの問題でしょうか? それは極めて極めて大きな犯罪です! 罪はこの上なく大きいのです! 最後のとき師父のところに来て、「師父、私は修煉が良くできませんでした」と言えば済む問題ですか? あなたを見逃す者がいるのですか? それらの旧勢力はあなたを見逃すのですか? なんと厳しい問題でしょう」[5]

 法に沿ってないところがありましたら、同修の慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』「業力の転化」
 [2] 李洪志
父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」
 [3] 李洪志父の著作:『精進要旨二』「法を正す時期の大法弟子」
 [4] 李洪志父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [5] 李洪志父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/7/15/331399.html )
 
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