【明慧日本2016年8月24日】幼い頃から大学に入るまで、共産党文化に浸り、実証科学の教育を受け、さらに数十年の教育と研究に携わった結果、私は「科学を信じ、迷信を否定する」という頑固で、狭隘な観念を形成しました。しかし、大千世界に対して、科学が認識できないことはあまりにも多すぎます。
1993年、当時の人体科学学会から、気功師に実験をしてほしいという依頼が来ました。彼らは資金を提供して、私を、第一回全国気功学術シンポジウムともう一つの規模の大きい国際気功学術シンポジウムに招きました。この二つのシンポジウムには国内外から多くの気功師が参加し、また多くの国内の研究者も参加しました。会場では、気功師がパフォーマンスを披露する場面もあれば、実証科学で気功に対する研究結果の論文発表もありました。
この二つの気功学術シンポジウムへの参加は、私の頑固な観念を根本的に揺り動かしました。気功は迷信ではなく、しかも、深遠な道理があり、研究する価値のある領域だと思いました。そこで、私は自らも素晴らしい気功を探し求めて、それを修煉してみたい気持ちが芽生えました。
師父の見事なご按排で、私は無神論の泥沼から救い出されました。1994年、私は師父の説法講習会に参加して、修煉を始めました。講習会の最初の数回の講義では、師父が講義を始められると、私は眠くて眠くてとても焦りました。どうしても自分をコントロールできず、どうしても寝てしまうのでした。ところが、不思議な事に、寝ている自分は確かに師父の説法を全部聞いていました。帰宅の途中で、師父の講義の内容を復唱すると、夫はとても不思議そうに、「あなたはぐっすり寝ていたのに、どうして全部覚えているの?」と言いました。師父がおっしゃった「ぐっすり眠っているのに、一言も聞き落とさず、全部耳に入っており・・・」(『轉法輪転法輪』)の不思議さをこの身を持って体験させていただくと同時に、師父のこの上ない慈悲と励ましを感じました。
講習会の最後の日、スタッフは、学習者が師父と一緒に写真を撮影する手配をしてくれました。師父は最前列に立っておられ、学習者は師父の後ろの階段の一段一段に立ち、師父は場所を変えず、後ろの学習者たちを入れ替えて撮影をする方式でした。私は、師父の横で、師父と一緒に写真を撮りたい気持ちを抑えきれず、勇気を奮って、師父の前に来て、「とても師父と一緒に写真を撮りたいのですが、よろしいでしょうか」と言いました。師父は「来て、来て」とおっしゃりながら、私を師父の右側に引っ張ってきて、師父と並んで立たせてくださいました。この時、後ろの学習者たちは少し騒ぎを起こしました。師父は振り向いて、「彼女は一枚撮って、すぐ帰るから」とおっしゃってくださいました。後ろは静かになりました。私はとても感動して、とても幸せを感じました。生まれて初めての最も幸せな時間でした。
講習会が終了後、夜、家に帰って、電気を消して、ベッドに横たわって天井を見ながら、とても落ち着いて、夫に、「私は法輪功を修煉します。永遠に修煉します」と言いました。この時、天井には、直径30センチの大きさの法輪が現れました。法輪の中心のバラ色の底色と金色の卍がとてもはっきりと、明るく、美しく現れ、外側の四つの小さな卍と四つの太極図は見えず、底色の淡い水色しか分かりませんでした。法輪は回転し、回転し、数分間ずっとそこで回転しました。夫は何も見えませんでした。娘は私たちの会話を聞いて、こちらにも来ましたが、やはり何も見えませんでした。しかし、彼らは、私が見えたと信じていました。また、これは師父の私たちに対する激励だと家族3人は感じていました。
1980年代の初め頃、私の目はだんだん見えなくなり、病院で検査をしたら、乱視がとても深刻だと言われました。1982年の初めに、私は眼鏡を作り、本を読んだり、或いは文書を書いたりする時、必ず眼鏡をかけていました。そうでなければ、頭が痛くなり、目が疲れ、気分が悪くなるのでした。1994年のある日、私は授業の準備をして、教案を書いていた時、眼鏡を取ろうとして、机から10センチ離れた所から眼鏡を机に落としました。レンズをつなぐブリッジが折れてしまって、眼鏡が使えなくなりました。しかし、1時間後に講義があるため、臨時休講をしたくても、もう間に合いません。私は試しに、参考書を開いてみたら、なんと、文字がはっきりと見え、しかも、目も頭も全く気分が悪いことはありませんでした。私は驚きました。乱視が治ったのです。眼鏡をかけなくても大丈夫でした。しかしあの時、私は修煉して、まだ2カ月足らずでした。
その後、様々な頑固な病気、骨盤内炎症性疾患、痔、リューマチ、鼻炎、咽頭炎、ドライアイ、耳鳴り等、すべて修煉の中で、知らない中に消えてなくなりました。
修煉の中で、私は法輪大法の偉大さと不思議さを体験させていただきました。また、いつでもどこでも、師父が弟子を見守られ、加護される浩蕩たる佛恩を感じています。