修煉の機縁を大切にし、真に修煉する
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文/米国インディアナ州の大法弟子

 【明慧日本2016年10月9日】

 敬愛する師父、こんにちは!

 同修のみなさん、こんにちは!

 ここ最近の修煉過程を振り返って反省し、自らの体験と教訓を皆さんと交流する機会を与えてくださった師父と同修たちに感謝します。

 近年の修煉を思い出せば、最も後悔していることは修煉する意思がまだ固まっていなかったということでした。師父が与えてくださったトラブルや関の中で自分を正し、全体と共に精進する機会を大切にすることができませんでした。一部の執着心や常人の観念を取り除いたものの、それでも、師父と大法の要求から見れば、まだほど遠いのです。トラブルの中で、関の中で、衆生を救うプロジェクトの中で、修煉する堅い意志を持つことができずに、多くの精進の機会を失ってしまいました。心の中には後悔と自分への警告しかありません。千万年に一度の修煉の機縁を大切にして、同修と共に法を正す時期の大法弟子として、修煉を始めたばかりのころのように厳しく自分を律して、これからの道をしっかり歩んで行きたいと思います。

 トラブルから逃げず、「真・善・忍に基づいて同時に修煉する」[1]

 北米に来てすでに20年以上経ちました。修煉は「真」について自分はしっかりできていると思っています。修煉を始めたころは、個人の修煉で分からないことがあればすぐに同修と交流し、同修に問題が見えたらすぐに教えてあげました。個人としては世間体を気にすることもなければ、自らの過ちをさらすことに対する恐怖心もありませんでした。自分の修煉の時間は他の人より短いので、早く執着心を探して取り除かねばならないと思い、常人の自己保身のような利己心は取り除かなければならないと認識していたからです。さらに、衆生を救うプロジェクトをしっかり成し遂げるには同修たちと共に精進していかなければなりません。そのためには心をさらけ出して交流してこそ、共に助け合い、共に精進できるのです。

 学法が深まるにつれ、一人一人の次元と認識が異なっており、自分と同修たちのまだ取り除いていない人心はより複雑で、「真」を修めるのも容易なことではないと悟りました。プロジェクトの中で、精進の中で、修煉者に見えない言動や漏れがある同修を見た時、あるいは、もっとよい方法があると思いついた時など、同修を信用しているという気持ちで遠慮なく自分の意見や思ったことを話しました。その結果、心を開いてくれる同修と出会い、修煉の道でお互い支え合える存在になることもできました。しかしながら、時には、自分の意見が受け入れられないだけでなく、私自身に異見を持つ人まで出てきたのです。このような時、これを機に自分を修めることができずに常人の次元に陥ってしまい、師父が苦労して按排してくださった慈悲を修める機会を逃してしまいました。

 修煉上での後悔と同修に対する高すぎる期待などの厳しすぎる現実を突きつけられて、一時期は意気消沈してしまいました。同修に失望しただけでなく、ともに努力してきたことに対しても自信を失ったのです。自分は「真」を修めているのか、他人は「真」を修煉しているのかについて疑問を持ち始めました。私自身も様々な難関の中で、真に修める堅固な意志もなく、修煉者として自分自身を律することができなかったため、当然のことながら、真の修煉者にあるべき度量で他の同修を受け入れることもできませんでした。

 その時期は、家の水道管から出る水も錆びた匂いがして黄色でした。「5年以上も使っていたのになぜ今ごろ壊れたのか?」と不思議に思いましたが、それからしばらくして、ようやくそれは師父が私に「修める(中国語では、『修』と錆びるの『錆』は同じ音)」ことをと教えておられると気づいたのです。こうして、ようやく、自分はまだ「真」とはほど遠い位置にいることを認識しました。

 法を勉強しながら内に向けて自分自身を探し、また、他の同修との交流や明慧の交流文章を読んでいくことで、心を込めて内に向けて探すことこそが「真」を修めることだとわかりました。師父は「われわれの法輪大法という法門は、宇宙の最高の基準ー真・善・忍に基づいて同時に修煉するので、われわれの修煉する功はとても大きいのです」[1]と説かれました。法の通りに自らを修めていくことで極端に走らず、執着心も生まれなくなり、常人の認識と後天的な観念をしっかりと抑制することで、それぞれの次元で力を発揮することができるのです。関を乗り越える時、修煉者の「善」は意識的に工夫して出てくるものではなく、自然に内から溢れ出すものであり、ある一定の次元に達していることの表れであることに気づき、実修する意志を固めることにより、今の「忍」の次元から上がっていくことができることも悟りました。

 「真」とは法に則って本当の事を話し、実際の言動に移していくことで、偽善から抜け出すことができます。他者と真正面から向き合い、己の欲しないことを人に施すことなく、常に他人の事を考えることができれば、「善」の方法でトラブルや問題を解消することができることを知りました。師父は真・善・忍を同時に修煉するようにと説かれました。「善」と「忍」から離れた「真」が本当の修煉者の境地を表すことは不可能なのです。この点について、私は時間をかけてようやく認識することができ、ついに以前の状態から抜け出すことができました。

 常人の友人に法輪功真相を伝える時も、家庭から生じるトラブルや同修間の意見の違いにおいても、それはまさに真・善・忍を修煉する環境だと感じました。例えば、真相を伝える時、心の底から相手を救いたいという願望がなければ、大法弟子が持つ巨大な善の力を発揮することができず、ただ世間体を気にするだけで、結果的には相手を感動させたり、その気にさせたりすることはできないのです。

 常人の観念を変え、家庭の関を乗り越える

 私の修煉環境は主に家庭の中にあり、修煉しない家族と常に一緒にいるので、子供と夫の喜怒哀楽や常人としての様々な考えと言動を目のあたりにして、心を動じることなく、真剣にこれらと直面するのは、容易なことではないとつくづく感じました。振り返ってみれば、関を乗り越えられていない時は、深く根付いている常人の観念に邪魔されていたことが原因であり、その場で悟れなかった時もあれば、直面したくなくて、努力もせずに自分自身を修めていない時もありました。

 自分が成長した環境から、子供に対する教育方法は自然に自分が中国にいた時に両親や教師から受けた教育方針になってしまいます。家では、両親に逆らわないことや、子供は無条件に目上の者の言うことに従うことなど、米国育ちの子供に対しては、平等で、ゆったりとした教育方法を取った方が受け入れやすいと分かってはいるものの、やはり、日常に起きている様々なことから、保護者としての自分の権威が脅かされていると感じて、時には我慢できずについ怒鳴ってしまったり、両親を敬わないと責めたりしてしまいます。子供は子供で「近づきたいから、もっと親しくなりたいから言ったんだ。裏表が激しいやつよりはましじゃないか。なぜ怒るのか」と思っています。そして、言い返されればされるほど怒りが増していき、一時期は子供との関係が非常に緊迫していました。

 修煉者は怒ってはならず、忍耐しなければならないと分かっているので、子供に説教する度に後悔して、次こそは我慢しなければと心に決めていましたが、我慢できない時も度々ありました。

 ある日、同修の気分があまり良くなく、子供が「恩を感じる」ことを理解できないと私に相談してきました。同修を慰めながら原因を分析していくうちに、ふと自分が抱えている問題がパッと消えたような気がしました。これはただ「情」を無くすだけで解決できる問題ではないのです。輪廻転生の中で深く根付いた常人の観念もあり、常人としては、子供が親孝行をするのは当たり前のことで、恩を感じるということは人間が持つべき規範です。中国の伝統文化の中にある「孝行」の基本なので、このように子供を教育することは間違いではありません。しかしながら、修煉者としては、このような理を固守してはいけないのです。子供に対する教育が疎かでない限り、成長した子供を見てどのように報われるかなど、修煉者はそれを求めなければ、気にすることもなく、「欲せず、執着せず」でいなければならないのです。尊敬してもよし、恩に感じるもよし、すべては常人の理です。このことに気づいてからは子供や夫婦、友人に対する「情」という関も随分と乗り越えやすくなりました。

 家庭という修煉環境のなかで、常に名誉や利益、情などの試練に直面します。名利を求める心が強い時、夫の仕事が不安定になると、彼もまたすぐ緊張してしまいます。そして、家の中で話すことは仕事のことばかりになり、私にどのようにお金を稼ぐかなどを意見してくるのです。しかしながら、現在、子供が私立大学に通っていて、最もお金を必要としている時期であるにもかかわらず、夫は企業の不景気や、収入が減るかもしれないという問題に対して全く動揺せず、それどころか、「うちは金に困っていない」と何度も話してくれました。これを見て、以前のことはすべて自らの常人の心の表れであると気づきました。師父が説かれた「あなたに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」という説法を覚えることで修煉に対する意志を固めることができました。

 修煉の機縁を大切に精進する

 近年、神韻のプロジェクトに参加して、各地域の同修が全力で衆生を救っているのを見て、とても感動すると同時に、同修たちとの差も見えました。自らの修煉を振り返ってみれば、怠けている時は全て真に修める意志が堅固でなかったことの表れなのです。

 三つのことを例にあげましょう。私はかつて、神韻の公演時期になると、コールセンターで忙しくなるので、毎日の煉功が保障できず、後でしっかり補わなければならないとよく同修に言いました。同修たちは皆優しいので、このような言い訳に対して何も言わずに了解の態度を取っていました。そして、私自身も、しばらくの間は自分の考えや行いが道理にかなっていると思い、平然と落ち着いていたのです。しかしながら、修煉者としてやるべき課題をしていなければ、それは衆生を救う力と効果に直接影響するのです。夫も「なるほど、こんなことをしていれば修煉ということになるんだ」と不機嫌そうに言っていました。結局、自分が忙しくなっただけでなく、心身の状態も疲れ気味で、その上、家族にまで影響を及ぼしたのでした。

 表面上は苦を恐れて、疲れることを嫌がる安逸心ですが、実際はそういう単純なことではないのです。自分が常人の時は疲れを恐れていなかったのに、なぜ修煉者になると、こうも苦を嘗めることができないのでしょうか。深く掘り下げていったところ、やはり師を信じ、法を信じることに問題があったのです。煉功は最も良い休憩になると分かっていながらも、科学の概念から抜け出すことができずに、どうしてもきちんと睡眠をとった方が良いと思っていたのです。自分でも驚きましたが、原因を掘り出したからには、この観念を取り除かねばならないと決心しました。

 コールセンターに入ったばかりの時は、やっと自分の状況に合う衆生を救うプロジェクトだと思い、この機会を大切にしていて、できる限りうまくやろうと毎日力を尽くして努力していました。当時の自分は電話一つすら逃したくなく、電話をかけてきた全ての人にチケットを買ってもらいたい一心でした。英語はあまり上手ではなく、時には専門的なことを聞かれて、答えによっては衆生が救われなくなるのではないかと冷や汗が流れる場合もありました。また、相手の名前を電話番号だけ書き留めて、後で協調人に処理してもらうような状況もありました。しかし、それでも師父は衆生の口を借りて私を励ましてくださったのです。例えば、アメリカに来てすでに20年あまりになりますが、はじめてネイティブの人に声が素敵と褒められ、電話を通じてチケットを買ってよかったとも言われました。それから、私の中国語なまりの英語が好きだという人もいて、自分がどれほど中国の文化を愛しているかなども話してくれました。また、高額なチケットを売った後に協調人も時には励ましてくれたり、一度も名前と住所を間違えないと褒めてくれたりもしました。

 しかしながら、仕事が増えていくにつれて、とても一度に手が回る状況ではなくなり、必ずどちらかが疎かになってしまいます。人との交流が非常に少ない上、以前隔たりを作ってしまった人と誤解を解くことをしていなかったので、次第に力不足を感じ、文句が増え、意気消沈してしまいました。また、コールセンターに入ってくる同修が増えていくにつれて、衆生を救う動機が以前のように純粋でなくなり、時には仕事に対する責任感だけで働いていたのです。

 師父の『二〇一五年米国西部法会での説法』が発表されて、自らの状態と照らして、非常に驚きました。自分は走らなければ前の同修に追いつけない部類に入っているのか、それとも、例え走っても追いつくことができない部類に入っているのかを、今更考えても仕方がありません。以前解決できなかった問題は必ず解決しなければなりませんし、法を得たばかりのころのような気持ちで修煉しなければなりません。協調人として多くの仕事を担わなければならない時は、言い訳を探して他人に押しつけたり、逃げたりせずに、執着心が生まれないよう自らの心をしっかりと守って、できる限り協力し、他の同修が学法に対して疎かになった場合は、善意をもって指摘し、時間があれば相手の仕事を分担しました。最近、学法に力を入れているので、体力や精神力の改善を感じるだけでなく、仕事の効率も上がり、個人の状態がどんどん良い方へと向かっています。

 不必要な誤解を無くそうと、できる限り同修に自分の仕事量と仕事内容を教えてきましたので、今では、例え理解されない時があっても、それを自らの度量を広げる機会と見なしています。そして、しっかりと三つのことをやり、真面目に法を勉強するよう常に自分自身を促しています。師父は「あの決心、あの確固たる信念は法に由来しています」[2]と説かれました。これからは限られた時間の中で真に修める意志を固め、縁のある衆生を救えるよう努力していきたいと思います。

 最後に師父の説法で終わりたいと思います。

 「皆さんは世の人を救い済度し、彼らを目覚めさせ、彼らを救い済度したいと思っていますが、 皆さん自身も目覚めるべきであり、悟るべきです。たくさんの仕事をすると、自分の修煉を忘れてしまい、これではいけません。皆さんは修煉者であり、これは 皆さんの以前のこと、かつてのこと、またはあなたの表れを言っているのではなく、あなたの本質、あなたの生命の意義、あなたが背負った責任、あなたの歴史的使命を言っているのです。このようにしてはじめて、あなたは本当の大法弟子になります」[3]

 注:

 [1]李洪志師父の著作:『轉法輪

 [2]李洪志師父の著作:『二〇一五年米国西部法会での説法』

 [3]李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/9/332694.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2016/8/13/158237.html)
 
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