師父と法を信じて、固有の観念を破る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年12月27日】私は専門学校の英語教師です。中学校のときから文法が好きで、文法の問題を解くため、国語の先生とよく論争していました。もう一つ、私は「間違ったところが分かれば、前に進められる」と考えているので、同僚や生徒、家族、他人、自分、それに社会に対して、とにかく間違っていると気づくと、誰に対しても何事であっても指摘する性格です。

 まさにこれらの習慣で初期の学法のとき、私は法を読みながら、文法的に正しいかどうかを考え、文字の表面的な意味を追求しました。これによって、法を疑ったこともあり、師父と法を信じることにも影響がありました。

 文法のことについて、私見を述べます。 常人の言語学理論から見れば、文法が慣習的なもので、一般に認められている言語ルールですが、主観性と随意性があります。ただ一旦、決まると、一般的には守らなければなりません。言語ルールは約束の決まりだからといって、永久不変とは言えません。言語はいつも、使うときの変化によって変わります。例えば、特別な時期、特殊な場合、特殊な人物などのとき、言語ルールの束縛を破ることができます。これによって言語ルールを変え、そして言語学者に承認されて、最終的にそれが世に受け入れられることになります。

 歴史的に現在、師父は中国語で宇宙大法を伝えておられます! 考えてみれば、今は特別な時期だと思います! 「今日」、「大法」、「創世主」、何事より特別ではありませんか! われわれ大法修煉者しか、その偉大さを理解できません。どんな言葉を使っても、その深い意味を述べられません。言語規範の問題に対して、師父は特別に説法されました。 師父のその説法を学んで「常人の言語ルールの言語表現では、宇宙大法を伝えることに制限があり、宇宙大法を伝えることができない」と私は確信しました。

 学法に影響されたのは、文法の観念だけではありませんでした。いわゆる科学、常識などの観念が、学法に大きな影響を与えています。以前、私は師父が説法の中でおっしゃった異常現象の事例にも疑問を持ち、信じがたいと感じることもありました。常人の本を読むとき、私はいつも連想と疑問を持ちながら読んでいきました。ですから、法を学ぶ初期のころ、私は内容を見て疑う点を探しながら読みました。毎回、『轉法輪』を読み終えて、新たな疑問を発見しました。もちろん疑問が解決されることもありました。一つ一つの疑問の解答を見つけたとき、私はとても喜びました。

 本当のところ、私は初期のころ法を学ぶとき、確かにいつもあれこれを疑いました。「すべてのことを疑う」という常人の思想に影響されたため、私はそうなったのです。「すべてのことを疑う」ということは、常人の『知識界』で正しいことで必要なことだと思います。なぜなら、人の思想、知識、科学は完璧なものがなく、絶えず進歩と発展をしています。進歩と発展のために懐疑的な精神があれば、前のものの頂点を突破することができます。しかし、神が人に与えるものは、人にとって完璧でそれ以上発展させることができません。というのは、人は神を超えることができないからです。例えば漢方医学の経典の『黄帝内経』は、神が中国人に引き渡したものです。後世、どれだけの漢方医学者が輩出しても、漢方医学の基本的な理論が『黄帝内経』を超えることはありません。『周易』、『八掛』なども同じく、後世の人は超越することができません。ですから、人は神に対して疑ってはいけないのです。

 私の天目は開いておらず、師父がおっしゃった煉功の時に現われるべき現象も現れませんでした。その原因もあって、法に対する疑惑を持ちました。しかし疑問があるとき、私は「修煉する前に、病院で治らなかった病気が消えたのではありませんか! それは科学で解釈できない奇跡ではありませんか!」と自分に言い聞かせました。実は、すべての疑問と不信は、私が小さなころから無神論を頭に詰められてきたことと、生きている過程で形成した観念のせいなのです。

 思想は観念になると、根深く残ります。さらに、一種の潜在意識にもなります。私はとっくに無神論の思想を放棄しましたが、その観念はいつも、無意識的に出て来ることがあります。無神論の観念を徹底的に取り除いてしまうことはとても難しいのです。イエスが伝道した時、彼の門人たちは自分の目で奇跡を見て、自身の身にも奇跡が起こったことを体験しましたが、危難になったとき、彼らの第一反応は逃走することで、師を置いたまま逃げました!  かえって、知識があまりない庶民が、イエスの門人よりイエスのことを信じていました。あまり教育を受けていない人が違った観念に妨害されず、イエスを信じることを信じ続けることができます。

 「迷信」とは、迷いの中にいても信じることであり、一種の「悟性」です。 人は迷いの中で、目はすべての物を見ることが出来ると思い込み、科学がすべて解明してくれると理解していますが、その目、その科学の観念に騙されています。人は神に対して、「迷信」、つまり信じることしかできないのです。これは私が長年にわたって「信じる」と「疑う」に悩んで苦しんだ末、得た結果です。長年に科学教育を受けた人、多くの後天的観念を持っている人、特に賢者などは、なかなかいわゆる「迷信」を受け入れ難いのです。    

 修煉者たちは師父を信じ、油鍋に飛び込んで佛になったという「金佛」の物語を読みました。私はしばしばその場面を思い出します。それを思い出すたび「もし師父が、私に油鍋に飛び込みなさいとおっしゃられたら、躊躇なく跳び込むことができますか? やはり『沸いている油の中に飛び込むと、死んでしまう』という観念で、迷わずに飛び込むことができないという結果になるでしょう」と考え「師父を信じて法を信じ、生死を置いて、師父の指示に従えば、成佛できます。熱い油だと目で確認しても、幻の油かもしれません。師父を信じるかどうか、与えてくださった試練かもしれません」とも考えました。われわれ大法弟子は、師父が大法を世に伝えてから、数え切れない奇跡を目の当たりにしました。釈迦牟尼とイエスのときの奇跡よりも、大法で起きた奇跡の方が遥かに上で、遥かに多いのです。しかも、大法弟子一人ひとりの身にも、神の奇跡が数々起こりました。

 個人の認識で次元に限りがあり、限局性と誤りがあると思いますので、あれば、ご慈悲な指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/23/337120.html)
 
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