明慧法会|山村で大法の福音を伝える
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文/中国の大法弟子(同修が整理)

 【明慧日本2017年1月26日】

 偉大なる師父、こんにちは!

 全世界の同修の皆さん、こんにちは!

 私は今年76歳になりましたが、学校の門をくぐったことがありません。今日は自分の修煉の20年近い体験や経験、悟りを話して師父にご報告すると同時に、同修の皆さんと交流したいと思います。

 末期がんが20日間で完治した

 大法を修煉する前、生活するのは非常に困難で、夫は中風でベッドの上ですでに数年を過ごし、私自身も病を患い、肝炎で胃が悪く、さらに胆管炎だったので、痛み出すとお手上げでした。

 しかしこれはまだ宵の口で、致命的だったのは後に患った乳ガンで、気付いた時はすでに末期でした。1996年8月に手術を受けました。手術をした時に、胸、腹、肋骨、腕の筋肉に悪性腫瘍の転移があることに医師が気付きました。手術後は全身がだるく、右腕は垂れたままで、上がらなくなりました。私は長く生きられない、がん細胞はすでに全身に転移してしまっているので、家に戻って暮らすように、と医師は言いました。

 どんなに困難でも、もがきながらでも麻痺した夫を世話しなければなりませんでした。その頃、子供たちは身近にいなかったので、力になりませんでした。体が最もつらかった時は、数歩歩くだけで少し休まなければならず、精神はほとんど崩壊寸前でした。

 1996年2月25日は永遠に忘れられない日になりました。友人が会いに来て 「法輪功の修煉をしなさい、法輪功はあなたを救うことができます」と言いました。その日の夜、李洪志師父が法を伝えるビデオを見に行きました。

 はじめて師父にお目にかかった時、師父が顔なじみだと感じ、ゆっくり考えてみたところ、夢の中で会ったことがあるように感じました。師父の説法のお言葉一つ一つを拝聴すると、一語一語に心を打たれ、涙が出て 「これが探していた佛法であり、私の師父だ」と知りました。その日の夜はビデオを長い時間かけて見ていたので、長い時間泣きました。

 そして、その晩から法輪功の修煉をすることを決心しました。

 次の日、煉功に行き、指導員に 「私の右腕はどうしてか上げることができないので、煉功できないかもしれません」と伝えました。すると、指導員が私の右腕を持ち上げ、持ち上げ、さらに上げて頭のてっぺんまで持ち上げた時 「パチッ」という音が聞こえ、数秒間の痛みを経た後、腕が元気になったと感じ、手が動かせるようになり、功を学ぶことができるようになりました。たったの数分間で、師父は障害の残った右腕の二つの筋肉をつないでくださったのです。法輪功は実に素晴らしい、と感じました。涙があふれ出し、どのように師父に感謝すればいいのかわかりませんでした。

 煉功して20日経たないうちに、すべての病気がすっかり治ってしまい、無病で全身が軽い感じが素晴らしかったのです! 私は必ず師父の教えに従いしっかり修煉しなければなりませんでした。

 家で学法場所をたちあげると、同修たちが家に来たので、一緒に学法し、切磋琢磨しました。その頃、より多くの人々に真相を理解させ、法輪大法の恩恵を受けさせるために、指導員がいつも私たちを組織して他の町村へ行き法を伝え、法を宣伝しました。法を伝える活動に毎回、私も参加しました。法を伝えるために、1万元以上するレコーダーを息子に買ってもらいました。

 山ではどこも数軒の人たちが一つの村落を形成しており、村と村の間には峠があり、家と家の間には険しい坂がありました。私は町に住んでいましたが、山村で法を伝えるのにどんなに遠くまで歩いても、どんなに歩きにくい山道でも、疲れを感じないどころか、その山村の人に自分の経験を話し 「私は元々末期がんの病人でしたが、大法を修煉して20日間でガンがよくなりました」と言いました。すると、多くの人が私の不思議な出来事を聞き、めいめいが法輪功を学びに来ました。

 夜に浮かんだ明かり

 1999年「7.20」後、情勢が急変し、大法が誹謗中傷され、師父が誹謗中傷され濡れ衣を着せられ、大法弟子は残酷な迫害に遭いました。私の家も不当に家宅捜索されました。悪人が大法書籍やレコーダーなどを奪って行ったので、心を痛めて何日も泣きました。

 法を実証し、師父が無実であることを実証するために、同修たちはあらゆる手段を考えました。たとえば、箸の先にスポンジを巻き、赤いペンキをつけ、いたるところに 「法輪大法は素晴らしい」と書き、石の上、壁の上、電柱にも書き、紙に書いて貼り出し、大きな黄色い布にも書いて掛けました。

 ある時、同修が5メートルの長さの横断幕を書き、雪がやんだ後、同修の乙さんと横断幕を掛けに出かけました。道路の端に20メートルの高さの大看板が目に入り、骨組みが山形鋼で溶接されており、私は10メートルの高さまで登り、横断幕の一端のロープを掛けて、その後、もう一方にも登り横断幕を掛けました。黄色い布に赤い字で、真っ白な雪に覆われた地面の上に、「法輪大法好(法輪大法は素晴らしい)」の大きな5文字がひときわ目に飛び込んできました。鉄柱の上には雪があって滑りやすいので、警官が登って取りにいくはずもなく、狂ったように怒って、修煉者の家を戸別に回って拇印を押させ 「誰が書いたのか? 誰が掛けたのか?」と迫りました。そして「調べ出した後、拷問にかける」と言いました。しかし、大法弟子たちは誰も警官たちに協力しませんでした。そして、この横断幕は半月以上の間ずっとそこに掛かっていました。

 さらにある時、3人の同修と60枚の横断幕を背負って道の木の上に掛けました。その道は国道なので車が多く、人々はみな横断幕が浮かんで漂うのを見ることができ、道の途中から見渡すと、とてもきれいでした。およそ1時間半の間、横断幕を掛けていると、オートバイの音が聞こえ、警官が追って来たので、私たち4人は手早くとうもろこし畑に逃げ込みました。とうもろこし畑の横には線路があり、ちょうど使用していない列車が停まっていたので、列車の下から潜り込んでレールの反対側へ行きました。警官が行ってしまうのを待って、同修と残りの横断幕を掛けて、家に帰りました。

 その頃、山の中では法輪大法の真相資料が少なく、資料はすべて市内の同修が送って来てくれたものだったので、とても大切にしていました。毎回、どの村に配ったのか計算し、行ったことのない村だけに行ったので、資料を配れば配るほど村までの距離は遠くなりました。その後、バスに乗って行くようになり、遠いところから配り始め、配りながら戻って来るようにしました。最も遠い村はバスに乗って60キロ行かなければならず、戻って来るのに一晩歩かなければならず、疲れて足を曲げることができず、実際、もう歩けないほどになりましたが、そんな時は師父の詩の 「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[1]を暗唱すると、楽になり顔が赤らんできました。

 ある時、資料を配り終えて戻る時、雨が降りだし、闇が深くて手を伸ばしても5本の指がはっきり見えないほどで、歩いているうちに道に迷い、足元は石ころだらけで、数歩歩くと転んで方向を見失ってしまい、どこへ向かっているかわかりませんでした。その時、同修と 「師父、道しるべをお願いします!」と叫びました。そう言い終わると、突然、前面にぴかっと光る明かりがいくつか見られ、その明かりに向かって歩いて行くと、5、6分後、大通りにたどりつき、明かりは消えてしまいました。

 私たちは空を仰ぎ見て 「ありがとうございます師父!」と師父に申し上げました。そして、涙と雨がともに流れました。

 真相を知った民は救い済度されなければならない

 小型コピー機と4枚同時に記録できるDVDレコーダーを同修に頼んで買ってもらい、資料拠点を作り、資料が不足している地元の問題を解決しました。それは、外部の同修がたくさんの小包で材料を送ってくることの危険をなくすためでした。

 利用できるすべての時間を利用して資料を作成し、資料を作成した後は、安全に資料を届ける方法を考え、時には体に縛り付け、時にはかごに装着し、その上にアワやその他の食糧を載せました。当時の情勢は厳しく、外に出るのも中に入るのも誰かが監視していましたが、修煉者の心性でこのすべてに対処し、隣近所と周囲の人々によい印象を与え、各家の情況に合わせて資料を送り手渡しました。すると、真相を理解する人がますます増え、ある人は 「法輪功の修煉者はいい人なので、これからは私も法輪功を学びます」と言いました。

 ある女性同修が街で真相資料を配っていて警官に気づかれ、数人の警官が白日の下で女性同修を殴って気絶させてしまいました。すると、村民たちが怒りの声をあげて 「人が殴られて動けなくなっているのにまだ殴るなんて、おまけにすぐに救出しようともしない!」と言いました。群衆の非難の下、警官は女性同修を車に乗せましたが、救出したのではなく、警察署に連れていき、水をかけて目を覚まさせたのでした。その後、この修煉者は不当に懲役1年半の判決を受けました。町の十数人の同修はこっそりと家に帰りました。ある町の幹部は 「安全に気を配ってください」 「気をつけてください」と言い、さらにある人は 「必要なら相談に乗ります」と言いました。そしてその後、その人はやはり加勢してくれ、立派だったのです! その人と家族は福報を得ました。

 正念で悪を抑制し警官は手ぶらで帰った

 ある日突然、家に数人の警官が断りもなく入ってきて、私がプリンターを持っている、と言い張り、プリンターを出せ、と要求してきました。師父の按排に感謝したのですが、その日はちょうど、機械をよそへ置いて隠したところだったのです。警官たちが隅々まで捜し尽くしましたが、探し出すことはできませんでした。しかし、悪人は悔しがり、9日間続けて1組また1組と警官がやって来ました。ある時は昼間、ある時は夜半に来たので、邪魔されてご飯も食べられず、おちおち眠れず、朝から晩まで安心できませんでした。警官たちに真相を伝えても聞きませんでした。

 その後、恐ろしい顔をした9人の警官が来ました。その内の2人は銃を持っており、後ろから私の首に狙いを定めていました。1人はスタンガンを私の頭に当てながら 「今日は一緒に行ってもらわなければならない。手の内を明かすと、○○○がお前のことを告げ口し、コピー機を持っていて、さらにDVDレコーダーも持っており、資料を送ったり配ったりしている、と言っている。お前はこんなに年を取っていると言うものの、とても活躍しており、すでに重要人物になっているので、今日は連れて行かなければならない」と言いました。そこで私は 「○○○さんは刑務所に入れられ、迫害されてぼんやりした状態で出任せを言ったのです」と言いました。私が話している間にも、私を不当に連行しようとしたので、大きい声で 「あなたたちとは断固として行きません。師父があなたたちと一緒に行け、とは言っておられず、師父のおっしゃることだけを聞きます。師父が主導権を握っていらっしゃるからです」と言いました。

 この時、麻痺してベッドにいた夫が泣きながら 「妻が行ってしまったら、誰が私を見てくれるのですか? 誰も見てくれなかったら、生活していけないので、私も一緒に運んでください!」と言いました。ちょうどその時、次男が入口に現れました。次男は地方から車で戻って来たのでした。この状況の風向きを見て 「もうすぐ70歳なのに、母の何を管理するのですか? 学校にも行った事がないのに、機械ですって? 私たちはそんなもの見たことがありません」と言いました。すると、警官らは息子に狙いを定め「あなたのお母さんは行かなければならず、保証を書かせなければならず、さもなければ、あなたの仕事もなくなるよ!」と言い終えたあと、車で立ち去り際に 「また来るぞ!」と言いました。私は心でわかっていました、師父がまた私を助けてくださったことに感謝いたします。

 法を実証し師父が知恵を授けてくださった

 警官が絶えず不当に連行しようと画策し、脅迫してくるので、引っ越しを余儀なくされ、三男が住んでいる街に引っ越しました。私は 「大法弟子はどこへ行こうとも、法を実証しなければならない」と思いました。そして 「三男の家で真相資料を作ると、三男が困ることになる」と考え、自分で借家に住みました。

 当時、同修に連絡がとれなかったので、遠いほかの県で大法を修めている弟に電話をかけました。弟はパソコンとレーザープリンターを買って送ってくれ、手取り足取り一晩教えてくれました。弟は出勤しなければならないので、次の日帰る前に 「姉さん、ここに書いた通りに学べば使えるようになります」と書いた紙をおいていきました。

 パソコンをマスターしなければならなかったので、こんなに年を取っているのに教養もなく、いつになったらマスターできるというのでしょうかと涙を流しながら、師父の写真を見て 「師父、弟子に知恵をお与えください」と言いました。すると2日後、本当にプリントでき、ダウンロードもできるようになりました。私はカーゴバイクを買い、自分で消耗材を買いに行き、自分でプリントし、自分で配り、小生活圏や自由市場、公園に毎日、資料を配りに行き、時には面と向かって真相を伝えました。

 その後、地元の同修に連絡すると、集団学法もあり、互いに力を合わせて真相を伝える環境もありました。地元の同修の必要に応じて、インクジェット・カラー・プリンターの設備も整えました。年金は以前、夫に薬を買って飲ませたのですが、麻痺になって13年の夫に先立たれた後、毎月の年金は生活費用を残すだけで、あとは大法の人を救うプロジェクトに使いました。私の生命は師父が与えてくださり、私の一切は大法に属しているので、どんなに行っても、師父が助けてくださったことに報いることはできないと感じました。

 上の息子が200平米の大きな家を買い、私を一緒に住まわせようとしました。しかし 「私はその家に行きません」と伝えると、息子は涙をこぼしました。「私は法を正す時期の大法弟子で、師が法を正すことを手伝い人を救う責任を担っているのです」と息子に説明しました。すると、息子は理解し、少し小さい家を買ってくれました。この家であれば、1人で住めば三つのことに打ち込める時間が十分ありました。毎日、やり終えられない仕事があり、資料を作ることは本当に忙しくて手が回らず、1日か2日、同修に来てもらい、2人で一緒に行いました。

 しかし、どんなに忙しくても、いつもと同じように全体が協力することについては落としたことがありませんでした。

 法輪功学習者の臓器を生きたまま摘出するという中国共産党の犯罪が暴露された後、中国共産党の残忍さを人々に知らせ、人々に行動を起こすよう呼びかけて中国共産党の暴挙を制止させるために、私たち学法グループの同修たちは中国共産党の臓器狩りの蛮行を暴いたシールを大通りと路地裏、遠い郊外から近所まで、一夜で貼りつくそうと決めました。同修8人と一緒にオート三輪に乗り、ひたすら遠い郊外へシールを貼りに行きました。集合住宅の門前でシールを貼っていた時、中から騒がしい声が聞こえ、頭をあげて見てみると、そこは県の公安局だったので、急いで車を運転して逃げましたが、警官がオートバイで追って来ました。そこで、街灯のない土の道を走ると、オートバイも後ろから追いかけて来たので、ムギ畑に向けて運転するしかなく、すると、オートバイはムギ畑に入れなかったので、警官は追いかけるのを諦めました。そこで、再び村に戻り、シールを貼り終えました。

 私たちは田圃道に沿って引き返しました。ムギを灌漑した水が田圃道にできた穴にいっぱいになっており、車がその穴に乗り入れたため車がひっくり返ってしまい、私たち8人全員が車の下敷きになりましたが、不思議だったのは、全員の頭が外に出ていたことでした。私は地面の穴に向かって移動し、隙間から這い出し、続いて2人が這いだし、3人で力を合わせてオート三輪を元に戻しました。同修は誰も傷を負っておらず、痛みもありませんでした。師父はどんな時にも弟子を加護してくださっているのです。

 車は動かず、バッテリー8本は全て車が倒れた時に散らばってしまい、暗闇の中で1軒の人家を探し当て、懐中電灯を借りて何とかバッテリーを取り付けました。しかし、ライトが壊れており、あたりはさらに暗く、深夜になってしまったので、師父に加持をお願いしました。なぜなら夜が明ける前に急いで家に帰らなければなりません。そうでなければ、泥まみれになっているのにどうやって街へ戻ればいいでしょうか? しばらくすると、オート三輪のエンジンが始動したので、感激で涙を流して師父に感謝申し上げました。

 オート三輪に乗りながら、みんなはうれしそうに笑いました! 全員の綿入りの服はすでにずぶ濡れで、すぐにすべて凍りましたが、誰も寒く感じませんでした。車を降りて家路をたどっていると、服に付いた氷がカチャカチャ音を立てました。家に着くと、早朝の3時半でした。急いで服を洗濯すると、ちょうど全国統一の煉功時間になりました。

 明慧卓上カレンダーに人々が先を争う

 昨年末、同修の乙さんと自由市場へ2017年の明慧カレンダーを配りに行きました。カレンダー数百個と、1枚物のカレンダーを500枚準備しました。

 市場に着くと、私たち2人は大声で 「早く来てください、貴重な品を差し上げに来ました、欲しい人なら誰でも福報を得ます!」と市場にいる人々に向かって挨拶しました。すると、人々がすぐに取り囲み、私たち2人は忙しくて手が回らなくなり、カレンダーを配りながら前へ進み、歩いて行くと、後ろにいる人が  「あの~! まだもらってません!」と叫んだので、再び引き返してその人に渡すと、その人は手に取った後、矢も盾もたまらずカレンダーを開き、「とってもきれい」と大声を上げました。綿布を売っていた3人の男性がカレンダーを手に持ちながら、拳を高く上げ 「法輪大法は素晴らしい!」と大きな声で叫びました。そして、3時間経たないうちに、カレンダーを全部配り終わり、その熱烈な場面は感動的でした。

 カレンダーを配り終えると、警官があちこち駆けずり回り、市場の中をあわてて走り回り、露店主の手からカレンダーを奪い取っては 「誰からもらった?」と聞いていました。しかし、警官に聞かれた人々はみな 「知りません、知らない人です」と答えていました。私たち2人はすぐに綿入れの外套を脱ぎ、帽子も脱いで、静かな場所を探して正念を発したので、少しも怖くはありませんでした。日が暮れようとする時間になると市場が終わるので、人の流れにまぎれて家に帰りました。

 真相を広めるために、自由市場では真相を伝える以外に、商売をしている人に真相紙幣を両替してもらい、1元の真相紙幣を100枚ずつ束ね、お釣りが必要な商売人に両替してもらえば、その商売人たちは真相紙幣を使うことによって福報を得るので、私たちはすぐに両替を終え市場を出て行きました。長い間、ずっと市場で露店主たちに両替してもらい、いくら両替したか統計できません。

 修煉の道は困苦でも、神と佛がそばにおられる

 この数年、法輪功のパンフレットやチラシ、『共産党についての九つの論評』、DVDなどを面と向かって配り、どれだけ配り、どれだけ三退させたのかは記憶していませんが、いずれにしても毎日出かけ、自由市場や軽食堂、マーケットの中、道端、駅などにいつも行きました。心の中には 「多くの人を救う」という一念だけがありました。!

 ある日、不思議な出来事に遭いました。同修と2人で歩きながら 「法輪大法は素晴らしい、法輪大法は正法です、佛光があまねく照らします・・・」と歌っていました。すると同修が 「聞いてください、空も歌っています」と言ったので、顔を上げて見渡しましたが、私たち2人の頭上で綿のような白い雲が一緒に動いているだけだったので 「歌声がどこから来るのか?」と疑いを抱きました。するとその時、道端にいた年老いた男性が 「あなたたちが歌っているのは何という歌ですか、とてもすばらしい、私の耳は特に聞こえが悪いのですが、すべて聞こえました」と言いました。常人でさえ聞こえたのです! 私たち2人は千万無量の思いでした。

 歩んできた道を振り返ると、師父がいつも加護し、励ましてくださいました。ただ精進し、精進し、さらに精進し、残された最後の道をしっかり歩み、自分の先史の大願を実行してはじめて大慈大悲の師父の救い済度のご恩に報いることができるのだ、ということがわかりました。

 ありがとうございました、師父!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/6/337147.html)
 
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