党文化の烙印 「極端に走る」ことを論じる
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文╱海外の大法弟子

 【明慧日本2017年2月10日】 小さい時から大人になるまで、私はずっと共産党文化に浸り、中国伝統文化になかなか触れられない家庭環境で育ちました。祖父の世代、親の世代、親族も全部共産党員で、私はまともな伝統的躾を親から受けず、喋り方、物事のやり方は、すべて極端で、よく 「死んでも・・・」  「そんなことをしていたら、天罰が下る」など、誓いを立てるような言い方や呪いの言葉を使って話をしていました。それなのに、それを変だと思わず、むしろ、当たり前で小さいときからの習慣でそうすべきだと思い込んでいました。

 修煉してから、次第に自分の喋り方、物事のやり方が周りの学習者達とは少し違う、と思うようになりました。師父が党文化について説かれた時、こんなに若いうちに法を得た私には、党文化の烙印が少ないだろうと自信満々に思っていました。しかし 『共産党についての九つの論評』を読んでから、自分の物事のやり方には問題があることに気づきました。自分の考え方、言葉遣い、振る舞い等にはすべて 「極端」の二文字が見え、人より優位に立とうとする闘争心が満ちている事に気づきました。

 大法を実証するプロジェクトに参加する中でも、同修の少しの欠点を見つければ、寛大な態度で人を理解しようとせず、なぜ自分にこの問題を見せたのかを考えたり、あるいは善意を持って相手に指摘したりしませんでした。そのようなやり方は効率が低く、早く問題を解決することができず、あるいは自分の焦る性格に合わないと思い、いつもより極端な方法で問題を解決しようとして、相手を棒喝するか、思い切って失敗させ、苦しみを味わってもらう方法を取り、同修の失敗についても、徹底的に原因究明し、相手に非を認めさせ、責任を負わせました。

 このような 「極端に走る」性格は自分の生活の中にも現れていました。自分は損をしたくないため、ご飯を入れる時は、必ず大盛りにし、お茶を入れる時は、必ず溢れるほど入れるとか、多くのことに対して、完璧を求め、さもなければ気になって仕方がない、そういう性格でした。

 時には、同修から善意の指摘を受けますが、しかし、「小さい頃からこうだから」、「この言い方は生きた口語だ」、「これは肯定の程度を表している」と弁解し、とにかく自分の間違いを認めようとしませんでした。実は中国の伝統文化の中に、古人はとっくの昔から 「月は満ちると欠け、水は満ちるとあふれる」という道理を言い出していました。

 「極端に走る」という振る舞いは師父が『轉法輪』の中で求められた 「純正で、なごやかで、慈悲に満ちた」境地に程遠いのです。さらに深く掘って行くと、至る所に 「私」という文字が映されています。

 問題に気づいたら、すぐに行動から正さなければなりません。この文章を自分の新たな行動のスタートにしたいと思います。表面から心の深層まで、どんな時でも常に気をつけながら、直して行きたいと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/2/2/342574.html)
 
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