恨む心を少しずつ取り除く
■ 印刷版
 

文/オーストラリアの大法弟子

 【明慧ネット2013年12月10日】

 尊敬する師父、こんにちは! 同修のみなさん、こんにちは!

 修煉してからとても長くが経ち、私はやっと自分に強い闘争心と恨む心があることを意識しました。

 私は自分の考えを発表するのが好きで、その上よく相手に反論します。他の人が何かの考えや構想を出すと、あるいは何かの仕事の指示を出すと、私はいつも素早く自分の基準や観念で評価し結論を出します。他の人が出した結論に賛成して感心する部分は少なく、否定する部分は多く、時にはまるであら捜しをするようです。たとえ全体的にまあまあ良いと思っても、やはり小さい不具合を見つけ出すことができ、心の中で少し否定したりします。

 また、相手に質問する時や人と論争する時はともかく、単独で意見を発表する時でも、私の言葉遣いや話す態度は刺々しくて攻撃的です。声が大きくてせっかちな口調で、自己顕示をしたい意欲を帯びて、強い顕示心と闘争心を伴って、自分の見解が正しいと証明したいのです。話す時に落ち着いて穏やかな人のことがとても羨ましく思いますが、自分が落ち着いて温和に、優しく話す時はとても少ないです。

 闘争心はずっと昔から持っています。どうでもいい小さな事でも、雑談の時でも、私は白と黒、是と非を付けたくなります。闘争心は小さい時から受けた党文化の教育に原因があると思います。『中国共産党についての九つの論評』と『党文化の解体』を読んだ後に、いっそうそれが分かりました。自分の闘争心に気付いてから直そうとしましたが、まだよくできていません。

 例を二つ挙げます。ある日、天国楽団の某同修と会った時、私は「あなたは、どうして最近の練習に何回も来ていないのですか。楽団を疎かに思わないでくださいよ」と言って、彼女も単刀直入に「あなたの話はどうしてこんなに刺々しいのですか。私は楽団を重要視していないわけではありません」と言い返しました。明らかに私の言葉で彼女は不愉快な思いをしました。

 もう一つの例は同修Aさんとの会話です。ある土曜日の集団学法の日、Bさんは自分の車に他の同修数人を載せて向かいましたが、Aさんを待つために学法に遅れました。このことを耳にした私はAさんに電話して、「今後、乗る時間などを事前に私と話してくれれば、私の車に乗ってもいいし、もう一人のあなたの家により近い同修の車に乗ってもいいと思います」と提案したら、Aさんは今日遅れた原因を説明して、ふだん皆を待たせることはないと強調しました。また、「今後もBさんの車に乗りたいです。Bさんは優しくて融通が利きますから」と言いました。彼ははっきりと言っていませんが、私の言ったことに気分が損なわれたことを、なんとなく私は嗅ぎつけました。

 二日間連続して、複数の同修との間に同じことが起きました。私の好意の言葉はかえって相手を不愉快にさせて、私自身も戸惑って困惑しました。どうして好意の言葉をかけたのに、こんな結果を招いたのでしょうか、と悔しく思いました。しかしすぐに、複数の人との間に同じトラブルが起きたら、きっと自分に問題があると考え付きました。私が言った言葉は本当に正しいのか、言い方は適切なのかと自分に問いかけたら、答えは「いいえ」です。私の出発点は決して利己的ではないのですが、話をする時に、やはり自分の考えを相手に強引に押し付ける部分があります。私は相手の気持ちを考慮したことがあったでしょうか? 彼らの実際の情況を優しく尋ねたことがあったでしょうか? 私は「善」をやり遂げたでしょうか? こう自分に問いかけたら、すべてが分かりました。私の話はとても強い「自我」と闘争心、責める心を帯びていました。Aさんは「Bさんは優しくて融通が利きますから」と言ったのですが、それはBさんの「善」の体現ではないですか? そのあたり、私は明らかにBさんとの間に差があります。

 顕示心、闘争心と密接に繋がっていたのは恨む心です。恨む心も、私の内心でずっと前から存在していました。外部環境が私の思いどおりにならない時、ある事の進展が私の期待にそぐわない時、他の人の考えとやり方が私と一致しない時、相手の問題点を見た時(相手に本当に問題があるかもしれませんが、多くの場合、私は「相手に問題がある」と決め付けただけではないかと思います)、私に恨む心が生じます。頭に浮かぶ第一念は「どうしてこうなったのですか」、「誰がやったのですか」です。顔に出したら他の人たちを不快にさせたり、チーム内の雰囲気を壊したりして、良い結果を収めたことがありません。顔に出さずに心の底に隠したら、自分の情緒を悪くさせ、マイナス的な考えが浮かんで、まったく修煉者らしくありません。

 この恨む心を取り除かなければならないと私は決心しました。去年の元旦、私は娘に「新年の所信を書きましょう」と言いました。新年の所信というのは、学校の先生や保護者が、よく低学年の子供たちに書かせる新しい一年の目標です。娘はすでに小さくないので、ママは冗談を言っていると思って、「書く必要がありません」と答えました。しかし私は「私に一つの目標があります。つまり何事に対しても責めない、文句を言わないという目標です」と言いました。あれから、その方面で私は特別に注意したので、少し改善がありました。しかしあれ以来、1年以上経ちましたが、私の恨む心は完全に取り除かれたわけではありません。今後とも引き続き注意していく必要があります。

 ある日、地方のパレードに参加するため、私と数人の学習者が前日に地方に行って、宿泊所に入りました。もう二人の同修、CさんとDさんはパレード当日に着く予定でしたが、着いた後、パレードの場所に向う前に私たちの宿泊所にまず荷物を置くという約束でした。しかし、私たちが着いた日に、パレードの開始時間が前倒しになったと知らされました。そうすると、CさんとDさんは着いた後にあまり時間の余裕がないということになります。その上、私たちの宿泊所はたいへん探し難い場所にあって、玄関まで着いても、中の部屋にたどり着けるとは限りません。CさんとDさんは定刻に到着できるでしょうか、私たちの宿泊所を順調に見つけることができるでしょうか、もし順調でない場合、私たちはずっと二人を待つか、それとも思い切ってパレードの場所に行ってしまったほうがいいでしょうか? おまけに二人はすでに家を出たので、連絡が取れない状態です。

 昔ならば、このような状況で私はとても不満な気持ちを生じやすく、「パレードに遅れないように、私たちはわざわざ前日に来たのですよ。今、貴方たちを待つために、パレードに遅れるかもしれません」と思ったりするでしょう。しかし今回、私はこのような恨む心を抑えることに成功しました。CさんとDさんは休暇を取れない状況下で、苦労を惜しまずに徹夜でバスに乗ってパレードの開催地に駆けつけてきたので、パレードを重視する気持ちはどれほど貴いのでしょうと思いました。私は同室の同修と相談して、この場所は探し難いため、翌日、朝から交代で街に出てCさんとDさんを待つことにしました。そして今回、皆が純粋な気持ちを抱えてパレード参加しに来て、師父は皆を加護されているので、きっと順調に解決できるだろうと思いました。結局翌朝、情況は非常に順調に運んで、待つ人は街に出た途端にCさんとDさんに会いました。

 また、パレード期間中に私は同修のいかなる欠点も見えていませんでした。昔なら、よく誰それのここはよく修煉できていないとか、誰それのやり方は理解し難いとか思っていましたが、今回、同修たちの良いところばかり見ていました。

 翻訳文の校正をやる時にも恨む心が容易に生じます。翻訳のミスを見た時、あるいは翻訳者の文章内容に対する取捨選択が私の考えと違う時、恨む心が生じやすくて、「どうしてこうなったのですか」、「こんなに簡単なものでも間違えたりしますか」とか思います。今、私は反対の面から、皆が翻訳と校正の仕事にできる限り努力しているので文句の付けようがない、もし何の問題もなかったら、校正する人(例えば私)は必要とされなくなるのよと考えます。

 ある日の夕方7時過ぎに電話がかかってきて、まだ一次校正をしていない文章が数編あって、手伝えるかと聞かれました。その日は私の当番ではなかったのですが、必要があるのを見て、私は何も言わず何も考えずにすぐ校正に着手しました。以前、こんな状況であれば、私はきっと手伝いながらぷんぷんと怒って、段取りが悪いなと愚痴っていたでしょう。でも今はそういう気持ちが全然なくて、一つの文章を選んで校正し始めました。

 その翻訳文は至らないところが多かったため、私は真剣に時間をかけて校正しました。完成した文章を送信する時に、この文章はすでにもう一人(下記にEさんと呼ぶ)によって校正されていたことを突然発見しました。たぶん二人は同時にその文章に着手して、自分以外の人もその文章を選んだことを、互いに気付かなかったからです。私は長い時間をかけて、しかもとても真面目に校正したので、Eさんより校正の質が良いかもしれない、いずれにしても、もうやり終えたので、無駄にさせないように自分の校正文も送信して、二つの文章からより質の良いほうを選ぶようにと二次校正の人にメモを残したら良いと私は考えました。もう一度ウェブページを見てみたら、Eさんの校正文はすでに選択されて、次のステップ、すなわち二次校正に入っていました。それでは、私の労力と時間は無駄になったのではありませんか。いいえ、私はそのように考えていませんでした。予想外の情況はやはりあり、Eさんもきっと真面目に校正して、校正文の質もきっと良いものだから、次のステップを遅らせていなければそれで良い、一次校正をした時に自分は真面目だったのでそれで充分だ、自分がどれほど無駄な時間や労力をかけたとか、なぜ仕事の成果が採用されていないかとかを争う必要がない、今後は着手する前にもう少し確認して、仕事が重複しないように気を付ければ良いと考えました。

 恨む心を除去する努力は少し成果が見えてきました。自分には、まだ他に多くの執着心があって、恨む心も完全に取り除けていないと知っていますが、少なくとも今回、私はそれを抑えることに成功しました。今後、もっと努力していきたいと思います。

 師父、ありがとうございました!

 同修の皆さん、ありがとうございました!

 (2013年オーストラリア法輪大法修煉体験交流会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/10/3/280636.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/10/11/142650.html)
 
関連文章