「執着を放下すれば舟は軽くて快く進み」を悟る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年11月28日】11月7日か明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会の交流文が掲載されて以来、私は毎日漏れなく読めるように、必ず当日の法会の交流文を指定のファイルに保存しています。私自身は2007年の第4回中国大陸大法弟子ネット法会に投稿して以来、毎回参加していますが、自分の投稿が発表されるように待ち望んだ結果、毎回掲載されませんでした。その後、心を静めてもう一度自分の原稿を読んでみると、中に多くの不純、人心の執着、顕示心、名を求める心、嫉妬心が混じり込んでいることに気づきました。言葉のきらびやかさを追求しようとして純粋で誠実な内容がなく、かえってたくさんの中共(中国共産党)の党文化の毒素が入って、自分が読んでも恥ずかしくてたまりません。

 今回も同じく第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会に参加しました。交流文募集の知らせを見て、直ちに書き始め、すぐに書き終わり、数回チェックしたあと投稿しました。明慧ネットが交流文を掲載した日から、毎日法会の文章をダウンロードしましたが、やはり自分の文章が明慧ネットに現れてほしい気持ちがありました。しかし、1週間が過ぎても自分の文章がなかったので、この求める心を放下しようと自分に言い聞かせました。自分の文章が発表されなければ、がっかり落ち込むということは、ちょうど自分の執着心を取り除くよいチャンスではないかと思いました。私はすぐに落ち着いて、執着もしなくなり、心を放下したので気分が楽になりました。

 毎日同修たちの交流文を読むとき、いつも同修たちの無私無我の境地に震撼して、多くは涙をこぼしながら読みました。よく修煉できた同修たちと比べ、自分はわずかしか修煉できていないと思いました。同修たちの文章を読んで、努力して追いつきたいという力が湧いてきました。同修たちの文章はみな壮大な叙事詩であり、宇宙の歴史に光り輝く足跡を残すことでしょう! このような文章でなければ真に大法弟子の高貴な境界を現し、真に師父と大法の偉大さを実証することはできません! 私もようやく分かりました。交流文を書くのは自分を高めるためで、それは書く人にも読む人にも共に修煉の過程であり、その中から自分の不足を探し出すことが文章を書く出発点です。発表されることに執着することは常人の名利心ではありませんか? 修煉は執着心を取り除くことなのに、なぜ求めるのでしょうか? 執着すればするほど発表されません。2007年に私は修煉体験を書いて明慧ネットに送りました。その時には何も執着せず、ただ自分の私心を取り除く過程を書き出しただけでしたが、すぐに発表されました。私の心の中に喜び、歓喜心、顕示心が生まれました。「明慧ラジオにも採用されたかな?」と見ると、まさに採用されており、その嬉しさは言うまでもありませんでした。しかしその放送をダウンロードして後で聴いてみると、自分の交流文の部分は飛ばされてしまっており、もう一度聞いても同じでした。パソコンのフォルダには確かにあったのに・・・。その時、これは自分の執着心を取り除くためだと分かりました。こんなに喜んで顕示するので、結局自分の交流文の録音をどうしても聞くことができなかったのです。すぐにダウンロードしたファイルと自分の執着を一緒に削除しました。その後も私は相変わらず明慧に投稿し続けましたが、自分の文章が発表されるかどうかに関心がなくなり、その執着心がなくなり、文章を書く時、書きたければ素早く書けるし、発表してほしくて頭を絞って言葉遣いに苦労することもなくなりました。本当に、師父が『精進要旨(二)』「心自明」の中で説かれた「執着を放下すれば舟は軽くて快く進み 人心が重ければ海洋を渡ることは難しい」という理のとおりでした。

 今日、いつものように、すべての法会の交流文をダウンロードすると、自分の交流文を見かけ、しかもトップページに近い場所にありました。それを他の文章と同じように法会のファイルに保存しました。今回、自分の交流文が発表されたのを見ましたが、以前のような興奮と感動がなくなりました。浮かんだ第一念は、「師父、私を励ましてくださり感謝いたします! これからもっと精進します。師父、ご安心ください!」でした。

 修煉の道で私たちが落ち込まずに、固く師父と法を信じ「初志貫徹」の志を持てば、必ずよい結果がでるに違いありません! 正しくないところがあればご指摘をお願いします。

 

注:
[1] 『精進要旨(二)』 「心自明」
[2] 『各地での説法九』 「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/18/282779.html)
 
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