時間を守ることは「真」を実践すること
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年2月21日】私は人と会う時、よくギリギリに約束の時間に着きます。時間ピッタリに着いた時、自分はうまく時間を計算した、ラッキー! と思い、心の中で喜んでいました。しかし、ほとんどの場合は数分遅刻しても、相手から特に不満を言われたことはありませんでした。だんだん慣れてきて、5分以内の遅刻は大したことはなく、遅刻の内に入らないと思うようになりました。

 ある日、また約束時間より5分遅刻しました。自分は早く着いて、ずいぶん待っていたのに、遅れてきたと年長の同修に叱られました。私は全く気にせず、あなたは早く着いたから待っていただけで、私はたった5分遅刻しただけだ、そんなに真剣に怒ることはないと思いました。

 その同修は突然私に「5分遅刻したことで、『真』を実践できたと思いますか?」と聞きましたが、私は何も答えられなかったのです。帰ったあと、自分の怠け心と私心を修めなかったため、今回のことに対し漏れを作ってしまったと反省しました。人と約束した以上、守らなければならず、それこそ「真」を実践しすることであり、小さいことだから大したことはないと思ってはいけないと思いました。

 周りの多くの同修は私と同じように約束時間を守れず、10分や20分以内の遅れなら、きっといろいろ事情があるから、許せる範囲だと思っています。遅刻の理由もまたいろいろあります(もちろん、突発な事件が発生したから間に合わなかった場合は論外)。ある同修は時間の計算を間違ったとか、ついでにちょっと買い物したとか、偶然友だちと出会ったので、話が長引いたとか、などなどです。またある同修は昼頃に家に来る約束をしたのに、午後になってやっと来て、私は3、4時間待たされてしまいました。なぜこんなに遅れてきたのかと聞くと、「どうせあなたは家にいるのだから、他のことをやりながら待っていれば、数時間遅れても大した影響はないでしょう」と答えました。実はこのような行動は相手の当日の計画を乱すことになるかもしれないのです。 

 甚だしい場合、周りの一部の同修はよく事前の連絡もなく、約束をすっぽかしています。前日その同修と会う約束をしていたのに、翌日現れなかったので、理由を尋ねると、「家から出たくない、わざわざ出かける必要はないと思った」と言われました。だんだんその同修のことが良く分かるようになり、約束を信じてもらえなくなりましたが、本人は特に気にしていない様子で、同修に「真」を実践していないと指摘されても、やはり本人は気にしていないようです。待っていた相手の同修はともかくとして、本人にとっても自分の修煉に対して、無責任ではないでしょうか!

 またある同修は数人の同修と約束したあと、直前になり、同じ日だと気付き、電話をして約束をキャンセルしました。しかし、キャンセルされた同修の立場に立って考えてみれば、その同修は約束のために事前に準備をしたかもしれず、ドタキャンされたことにより、計画がすべて壊されたことになるかもしれません。

 人を待つことはつらいことであり、待っているうちに焦ったりすることはよくあります。もし人のために考え、考慮すれば、自分が遅刻したことで相手につらい思いをさせたりしないと思います。約束の時間を重視しないことは、自分中心の私心の現れではありませんか? このように怠けて適当で無責任な態度は党文化の現れではありませんか? 私たちは他人との約束を重視し、大きいこと、小さいことに関係なく、約束をした以上、守らなければなりません。相手への責任だけではなく、自分自身の修煉に対する責任でもあります。

 以上は私個人の体験ですが、不足なところがあれば、慈悲なるご指摘をよろしくお願いいたします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/24/341249.html)
 
関連文章