修煉の「厳粛性」についてもう一度論じる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年3月22日】大法のホームページの経文検索の欄で「厳粛」というキーワードを探せば、9ページほど、85編の関連文章が出てきます。明らかに修煉において「厳粛」という単語は非常に重要であることが分かります。今日、皆さんと厳粛とは何かについて交流したいと思います。

 一、日常生活上の些細なことにおける厳粛性

 三つのことや衆生を救う一大事において、多くの人ははっきりとした認識を持っています。なぜなら、師父は説法で明言されました。しかし、いくつかの小さな事において、一部の同修は気を緩めてしまいました。たとえば、一部の同修は家族を手伝う口実でペットを飼い、口ではやむを得ないと訴えつつ、心の中では好きで好きでたまりません。植物を育てている同修もいて、口では正々堂々と師父が植物を育ててはいけないと仰っていないと言います。皆さん、師父は説法の中でインドのある修煉者が鹿を飼うことに執着して圓満成就できず、死んだ後に鹿に転生してしまい、自分の修煉を棒に振ってしまったと仰ったことを覚えていますか? だとすれば、私たちは動物を飼ったり、植物を育てたりすれば、それを愛し、保護し、それらに気を取られてしまうのではありませんか? これらは私たちの修煉にとって大きな妨げになるのではありませんか?

 一部の同修は甘酒を飲み、アルコールを含む食品を口にし、聞こえの良いように 「師父はただ酒を飲んではいけないとおっしゃいましたが、アルコールを含んだものを食べてはいけないとは、おっしゃっていません」と言い訳します。

 また、ある同修は間違っていると知りつつも、テレビを見る習慣をやめず、甚だしきに至っては師父の説法を曲解し 「師父が指摘されているのは意志の弱い人、妨害されやすい人のことであって、私はよくない要素を防ぎ止めることができ、中からプラスのエネルギーだけを吸収しているので、師父のおっしゃっているような部類に入らない」と言っています。同修よ、テレビは常人向けのものであって、中には七情六欲が含まれていなければ、どのようにして常人を引きつけますか。しかも、人間の言ういわゆるプラスのエネルギーでさえも情の一種で、どうして修煉によって得た慈悲心と同列に論じることができますか!

 実際、師父が明言されたかどうかは言い訳にならず、あなたの修煉に対する心構えが厳粛であるかどうかが肝心なことではないでしょうか! 小さい事の一つ一つがあなたの圓満成就の妨げになります。もしあなたが一心に精進したくて厳粛に修煉していきたいのなら、自分自身に難を設ける必要がどこにありますか。

 二、不二法門に対する厳粛性

 私の周囲の一部の同修は不二法門の問題において、ただ他の門派のものと接触しないことに留まっています。しかし、いくつかの方面において厳粛さを軽視しました。

 一部の同修は十二干支や星座の運勢、運命の占いなどにとても興味を持っていて、しかもよく周辺の同修に自分の今年の運勢の如何(いかん・どのようであるかの意)を口にし、もしある干支の人と多く接触しなければ悪運になると言っています。その理由は、私たちに肉体がある限り、まだ三界内の要素による制約を受け、必ず影響を受け信じなくてはならないというのです。しかし、同修よ、あなたは干支や占いなどを信じれば、その法門に入ったのかではありませんか!

 ある一部の同修は生活経験を堅く信じ、冬にはスープを煮込み、夏には多くの緑豆スープを飲み、春や秋には乾燥を防ぐためにクリームを塗り、のぼせには何を食べればよいかなどなどを言っています。理由は、私たちの体がまだ完全に高エネルギー物質に転化されていないので、人体の細胞が存在する限り、常人のように保養しなければならず、何もしないわけにはいかないというのです。一見理に叶っているように聞こえますが、じっくりと考えて見ると、修煉者の細胞は高エネルギー物質に転化されつつあり、人体の細胞を抑制することができるのです。それならば、これもまた常人の生活経験への一種の信仰(固く信じること)ではありませんか?

 私の不二法門に対する理解は、一つの法門を信じればその法門の要求を唯一の準則とし、非常に厳粛に従い、少しも揺れ動いてはいけないと思います!

 三、圓満成就の基準に対する厳粛性

 師父はこうおっしゃっています。「ですから、法は厳粛であり、大法弟子一人一人は必ず到達する各境地の基準に達しなければならず、これは厳粛なことです。修煉の中で取り除くべきものを取り除かなければならず、少しでもいい加減にしてはいけません」[1]

 この問題において、多くの同修は他人に自身の問題を指摘されると 「皆、それぞれの圓満成就する次元が違うので、要求も異なり、たとえ私にはまだ多くの人心が取り除かれていなくても、今の自分の次元の基準を満たせば、そんなに厳しく要求しなくても大丈夫です」とすぐにこう言います。

 甚だしきに至っては、ある同修はこう言いました。「今の私にはまだ多少の執着がありますが、それは私が三界で生活することができるように、師父が残して下さったのです。法が人間社会を正すその一瞬に、師父は私のそれらの執着を全部取り除いて下さいます。そうすれば、私は基準を満たすことでしょう」。 師父が直接取り除いて下されば、あなた自身が修煉していなかったに等しく、人間社会においても、あなたは何の努力もせずに、棚からぼたもちが落ちて来ることを空想する部類の人ではありませんか!

 なぜ圓満成就にこんな厳粛でない態度で臨むのですか! この中には執着心を取り除きたくない心が見えます。修煉は着実に一歩一歩しっかりと歩まなければならず、いかなる関もいい加減に対応してはなりません。人間の執着を握りつつ、一方で、異なる次元での圓満成就を空想することはおかしくはありませんか。皆さんは知っていますが、三界を出れば最初に得る果位は羅漢で、常人のすべての執着を放下しているはずです。あなたが執着を取り除かないままこの三界を出て、圓満しようとする考えは、非現実的ではありませんか!

 四、微々たる利益を前にしての厳粛性

 師父はこうおっしゃっています。「僅かばかりの利益を得るために、他人を傷つけ、少しばかり得たら嬉しくてたまらず、少しばかり失ったら辛くてたまりません。そのため、ろくに食事や睡眠をとれず、様々な病気を抱えるようになりますが、なんと辛いものでしょう!」[2]

 大きな利益を目の前にして、多くの同修は良く対応できますが、わずかな利益となれば、処世術の心理が優位に立ちます。一部の同修は何を買っても数円のために値切ります。一部の同修は他人が使わないものであれば、拾ってきて使います。一部の同修は他人からのちょっとした贈り物を気に留めず、一部の同修はご馳走したり、されたりするのが好きです。これらの同修は往々にしてわずかな利益を得た際に、心の中でこっそりと笑います。しかし、修煉とは人心を見ています。あなたがこれぽっちの利益を得ただけで嬉しくなるなら、やはり利益の心を徹底的に取り除いていないことになります。しかも、この宇宙には「失わなければ得られず」という理があって、利益が少ないからと言って、利益の面で修煉がよくできているかどうかをカウントされないはずがなく、修煉とは最も厳粛なものであることを、はっきりと覚えておいて下さい!

 一部の同修は自分の問題を指摘する同修に対して、「極端に走ってはいけません。師父は説法の中でそのような法理を言われましたが、私たちはまだ常人の中で生活しているので、最大限に常人に符合しなければなりません」と身勝手なことを言います。しかし、それは極端に走ることではなく、常人を超越することで、自分の修煉に責任を持つということです! 千里の堤はアリの穴で崩れます。実は、いかなる事においても法を最優先に考える同修なら、何をどうすべきかをよく知っています! この正法修煉の最後の道のりにおいて、私は一歩一歩を厳粛な態度で歩み、少しもぶれたり、ずれたりしてはいけないと強く思います!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『米国中部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/14/344187.html)
 
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