二言三言: 寂寞(せきばく)について
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 【明慧日本2017年4月14日】寂寞は人間の最大の敵と言われています。寂寞は人を孤独のなかで苦しめます。その苦しみは物質による苦しみとは比べられないもので、精神的な欠如です。『登幽州台歌』(ゆうしゅうだいにのぼるうた)のなかで詩人はこう書いています。「前に古人を見ず 後に来者を見ず 天地の悠悠たるを念い 独り愴然として悌下る」。ここで現したのは助けを得られない、寂寞の苦しみであり、しかも微々たる個人を宇宙の太古の時代においた時、落ち着き先が見つからない、確かに人を苦しめる寂寞です。

 中国語の解釈の角度からも寂寞の意味が分かります。寂とは、人の声に会わないこと。寞とは、家がないことです。ですから、孤独で寂しい苦しみとは親友がないとも理解でき、訴える先がないとも理解できます。しかし、落莫の苦しみは帰る家がなく、あちこちに枯れて落ちることです。生命は暖かさを渇望し、人間はさらに群居している生命なので、寂寞は人間にとって非常に耐え難いものです。ですから、人々はたくさんの方法で寂寞を排除します。例えば、愛情を求める、家庭を築く、集団で娯楽を楽しむ、人と交流する、外物に心を託すなどの方法で寂寞を排除します。

 しかし、おかしなことに、今の社会は発達していて寂寞を排除するたくさんの方法があり、十分に人は目がくらむほどになっていても、多くの人は回避できない寂寞の苦しみを感じています。家庭を築いた人であっても、家族に囲まれて家事もやらないといけないのに、夜が深まり静まった時、寂寞感に襲われます。そして、たくさんの人はその訳がわかりません。家族がいるではないか、たくさんの人の声が聞こえているではないか、なのにどうして、また寂寞を感じるのか。原因は、人間世界はほかでもなく、迷いの世界であり、人々は劇を演じているように夢の中に生きています。長期にわたり、物質生活に本性を隠されていますが、魂のなかで真の我はぼんやりと覚えています。自分の本当の故郷に帰りたい! 自分の本当の親族の身辺に帰りたい、と!

 回帰とは、一人一人の生命がこの世にやってきた大きな願いです。生命の真諦を悟ってこそ、はじめて明確に真実の目標を持つようになり、虚しさと寂寞を感じなくなります。なぜなら、彼らは、人間がこの世にやって来たのは、ほかでもなく身についている埃(ほこり)と良くないものを洗い尽くして、自分の真の家に帰ることであると硬く信じているからです!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/29/344415.html)
 
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