文/台湾の大法弟子
【明慧日本2017年6月4日】集団学法の交流の場で、「何を話したらよいか分からない」 「話す準備ができていない」と同修からよく聞かされます。
それに対して、自らの体得をここで述べさせていただきます。私達は毎日三つの事を行っています。時間、心の状態、家庭、友人、仕事、それから大法の真相伝え、すべてをしっかりこなさなければなりません。摩擦が起きた時は内に向かって自らの不足を探し、物事が順調に運んでいる時でも歓喜心を起さないように気をつけなければなりません。また困難に立ち向かっている時は、「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」という師父の教えを思い出し、乗り越えなければなりません。
私達は毎日時々刻々とこれらのことに直面している中で、心性を試されています。その全ては師父の按排によるものではないでしょうか。しっかりと行えるようになりたければ、自らの修煉を向上させなければなりません。向上の過程においては必ず心得があります。それを同修と分かち合う事が、まさしく師父が私達の修煉の一環として示されている形式です。私達はその形式を大切にしない理由はどこにもありません。
毎回の交流発表で一皮剥けたといつも感じています。正念をもち、妨げになる常人の殻から抜け出せたなら、同修や正直な心と向き合うことができます。さもなければ、「よくできていないところを他人に知られたくないという、メンツを気にする心」 「心得がうまく伝えられず、恥ずかしがる心」 「他人からの指摘を恐れて、最初から話す気持ちがさらさらない心」などの妨害は、内に向かって探しても、不足が見つからない原因を作ってしまいます。それは、自らの執着を隠蔽させようとする恐れる人心の現れです。
もちろん発表内容は批判的な内容や自らの不平不満ではなく、法に則って自らの悟りを話せば、聞いている同修は法に照らし合わせながら自らの不足を見つけ、一方、発表している同修は話している内に、自らの不足に気づくこともできます。お互いにとって正しい方向に戻れるように、自らの不足を正す過程でもあります。それを理解していれば、「しかし、内に向かって探してみたが見つからなかった」 「何を探せばよいかわからない」などのような発言がなくなるでしょう。
些細やかな体得ではありますが、同修による慈悲なるご叱正をお願いいたします。