寛容について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年6月19日】私は天目が開いたまま修煉している大法弟子です。集団学法で正念を発していた時に、遠くにいった同修の空間場がとても暗く、様々な邪悪の要素が溢れていたことを目にしました。力を尽くして、同修の空間場を清めようとしましたが、私の努力とは裏腹に少しも効果がありませんでした。私のエネルギーは同修の空間場にいる邪悪の要素とは異なる次元にあるようでした。なぜこのようなことが起きていたのか、この状況について私は深く探りました。そして、ある一つの問題点に気づきました。それは、普段、その同修がいる次元の中で行っていたことについて、私は何も把握していませんでした。知らず知らずに、その同修との間に大きな隔たりが出来てしまったのだと思いました。

    この問題点に気づいた瞬間、「同修に寛容を持って接する」という言葉について、さらなる深い悟りを得ることができました。それは、すべての修煉者は大法の中の一つの粒子であり、異なる生命に、異なる特性があり、異なる能力を所持していますが、みな大法が創り上げた生命であるため、みな共通点を持っています。異なる生命にとって長い歳月を経て、各自それぞれに異なる変異した要素と執着をもつようになり、常人社会での修煉の過程において、異なる執着と欠点が現れてくるのです。

 師父が最も大切にされているのは私たちの実質上の生命なのです、この前提の下で、師父が欲しておられることを円融するために、同修と一体になり、同修への手助けが出来ればいささかの妨害もなくなるようになります。しかし、以前、このようなケースに遭遇すると自分の容量を拡大して、相手の同修を包容できるように頑張ってきました。このような方法はとてもネガティブな解決策だと思いました、しかも、「わたくし」のことを最優先にして、大法の立場に立ち、同修と一体になることではありませんでした。なぜなら、その「わたし」はいくら容量を大きく拡大しても限度のあるものです。でも、大法の立場に立ち、物事を考えれば、容量や力量、そして知恵は無辺なものなのです。これは本質的な違いです。このことを悟ってから、再び同修の空間場の邪悪要素を清めるときに、非常に容易に、邪悪を瞬く間に取り除くことが出来るようになりました。

 大法弟子が一体になることについてですが、ある日、私は天目を通して、ある同修の護法神が白衣を身にまとい、現れて来たのを見ました。私にもう二度と自分の主に新奇なことを言わないでほしいと伝えて来ました。その主は求める心があまりにも強いため、悪い状態に陥り学法をしても身に入らず、このままだと、とても危険な状態に至るのだと言いました。

 後に、その同修に会い護法神の話を教えました。すると、その同修は「自分は長い間、ずっとネット小説に夢中で、特に出所が不明で他の空間の話や修煉の内容を書いたストーリーを好んで読んでいました。故に、頭が常に混沌(こんとん・ごっちゃ混ぜになる)として、学法と煉功にも支障をきたしています。

 同修の話を聴き、私は「修煉者の修煉状態は、師父が各自の状況に合わせて、順序良く按排されたものなのです。本来、円満成就まで、天目が塞いだまま修めなければならない人間が、常に外へ向けて求めてばかりいるその行為は、師父の按排への妨害と破壊ではないでしょうか! それはどんなに厳粛なことでしょうか! 無知なままなら修煉に影響を与えることはありませんが、功能に執着すれば修煉に多くの支障をきたしてしまい、修煉に影響を与えることになります!」と同修に注意を促しました。

 学法に対して、私達は深く心得ていると思います。他の空間の様子が何も見えなくても、声が何も聞こえなくても、心を静めて学法しさえすれば、大法のもつ自身のエネルギーが、十分に私たちの自信を満たしてくれます。ですので、往々にして私たちの心に常に大法があれば、真に円満成就に向かうことができます。自分の使命を全うすることが出来るのです。

 同修の皆さん、くれぐれも私たちへ無限な期待を寄せている衆生を失望させてはなりません。

 その後、同修はネット小説を読むことをやめて学法に集中し、法を実証することに勤めるようになりました。

 以上の事を書き出したのは、同修の皆さんと一緒にこの万古の機縁を大切にし、修煉の最後の道を共に手を携えて、しっかりと歩んでいきたいと思っているからです!!

 個人の体得にすぎず、不足なとこと思っているろがあれば、皆さんの慈悲なるご叱正をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/13/349566.html)
 
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