寛容を学んだ(二)
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 【明慧日本2014年9月14日】前の文へ

 家族

 私の父は知識人です。『共産党についての九つの論評』を読んで、これがすべて事実だと認めて三退して、大法の素晴らしさと真善忍の素晴らしさも認めました。しかし佛法の不思議さを信じず、神様もいない、鬼もいないと言い、とても頑固です。年齢を重ねるに連れ、耳も遠くなり、考えも遅くなって、話をするのは本当に難しいです。

 去年、母(同修)の体によくない現象が現れました。父は母を連れてあちこちへ検査しに行き、入院させなければならないと言い、母は入院したくないが父とのトラブルが心配で仕方がない状態でした。私は母が関を乗り越えられないのを心配し、また、父が大法を誤解することも心配で、いろいろな口実で入院を先延ばし、その期間に母が奇跡を起こして関を乗り越えられたらと願いました。母に会うたびに絶えず自分の認識を加え、知らず知らずのうちに二人とも強い求める心が生じていました。父は更に迫ってきて、私は父の背後の要素の妨害だと分かっていながら、人心から人間の方法で求めていたので、結局父と言い争いました。父は「煉功したら薬を飲んではいけないのか? 病気になっても病院に行ってはいけないのか?」と言い、「お前が阻んでいるから、治療できないのだ!」と言って、「お前は母さんの事をもっと心配しなさい。お前が家にいるとお母さんの体調が良くなる。離れたらお母さんはすぐ悪くなるから、しばらく家にいなさい。そばにいて話をしてあげなさい。行ってはならない」と言いました。私は心の中でこんなたくさんの事をやらなければならないのに、どうしろっていうの! と思って腹を立て、「もういい、荷物を取ってくる、明日来ればいいでしょう?」と言いました。父は「明日だけでは駄目だ。半月か一か月、もっと長い時間が必要だ!」と叫びました。このことは明らかに私に向かってやってきました。

 腹を立てて帰りましたが、帰り道で文句ばかりで内心穏やかでいられませんでした。家に着いて、いらいらしてどうしても分からなくなり、師父の写真を見ていると、突然師父が涙を流したのが見えて驚きました。私は一瞬で理解し「師父、私が間違えました! 私の間違いだと分かりました」と考えもせず口から出ました。

 しばらく座り、心を静めて法を勉強し始めました。法を勉強する中で、すべての言葉が自分のために言っているように感じ、内を向けて探し、喧嘩の前後の事を振り返り、大法弟子の基点から問題を考え、心配する心と情を放下して正念を発しながら、善意で父の心配と焦る気持ちを理解すると同時に、母も自分で決めなければならない、逃げたり人を頼ったりしてはならない、母には師父がいるから自分の道を歩まなければなりないと分かりました。

 翌日、父に「お父さんの心配する気持ちを理解できます。普通の人が病気になったらお医者さんに見てもらって、薬を飲まなければならないですが、修煉してから私たちは病気の原因に対して少し分かるようになりました。ですから私たちは体の不正常な状態について交流をしています。でも最終的にお母さんの事はお母さんで決めなければならないので、いかなる決断も理解します。お父さんたちが決めれば、私は出来る限りの手伝いや面倒を見ますので、ご安心ください」と言いました。話を聞いた父は突然、どうすればいいのか分からなくなり、まるで戦争の中で目標がなくなったみたいでした。小さい声で母に「私もどうすればいいか分からなくなったので、あなた自身で決めてください」と言いました。夜に父と母は私があまりにも忙しいから、早く家に帰ってくださいと言いました。内に向けて探すことでトラブルを解消し、最善の結果になりました。

 同僚

 私が仕事をしている部門に、師父がおっしゃったような「何をやっても駄目で、何の取り柄もない」[1]人が来ました。専門的な事が何も分からず、管理も分からず、自己顕示ばかりをしているこの人が上司に抜擢され、私は心から彼を軽蔑して、彼が何かを段取りする時、私はいつも不適当だと思い、機嫌悪く反抗してしまいました。彼が何回か休暇をとった時、私が臨時で仕事を任されて、毎回力を尽くしてみんなの仕事を調節して整頓しましたが、彼が帰ってくるとまた乱れてしまい、みんなで苦労して得たものはすべて彼の功績となって、心の中でとても気に入りませんでした。この時、そばの人が「彼がいない時あなたはとてもよく段取りしたわ。それぞれどう行うかがみんな分かっていたので、とてもスムーズでした。しかし、彼が帰ってきてまた乱れてしまいました」と言いました。心の中で本当に嫌になり、争う心がとても苦しく疲れていました。嫉妬心が作用していると分かり、自分を修めなければならないと思いましたが、名利への執着を放下できず、長い間ずっと戦いました。

 私は自分に問題があるに違いなく、嫉妬心は必ず取り除かなければならず、でなければ、直接自分の修煉と衆生を救い済度することに影響してしまうと言い聞かせました。普段の自分を思い出すと、常に疑う余地のない口調で、仕事にしても、真相を伝えることにしても、同修とのプロジェクトに関しても、討論にしても、常に自我が強く、思うままに、かつ強制的に自分の意見を人に加え、人を軽蔑していました。これらはすべて嫉妬心の現れです。修煉する前の自分に引け目があり、多くの心を隠してしまい、表面からは優しく礼儀正しく見えるが、だんだん自信がついて、人心も大きく現れてきてしまいました。実は引け目と自分を大きく見せることは一体のものです。しばらく正念を発してそれを取り除き、意識的に変えることによって、今は少し変化がありました。

 ある常人の青年と知り合って間もない頃、彼は知識のある私の話が好きだと言いました。少し親しくなって彼に真相を伝えると、怖がっていた様子でしたが聞いてくれました。それから、お互い平等で、彼のために考えて人生や仕事について話すと、私のことを信頼できる人で、良い人だと言いました。毎回の話は、全部修煉の中で絶えず自分を変えた後の感受と変化です。

 法を勉強して、内に向けて探し、絶えず自分を正す過程で、私は生命への理解と寛容を学びました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「忍とは何か」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/8/295694.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/9/3/2830.html)
 
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