文/広東省の大法弟子 一帆
【明慧日本2014年9月13日】(次の文へ)
十数年前、恐らく7.20に中国共産党が大法を弾圧し始めた頃のことです。ある日、法を勉強していると、突然大きな「真」が見えました。次のページを読むと、大きな「善」が見え、次へ進むとまた「真」と「善」が見えましたが、なぜ「忍」がないのかと心の中で疑惑に思いました。二日ぐらいこの状況でした。同修と交流した結果、「私が忍を成し遂げていない」と認識しましたが、どうしても理解できませんでした。修煉を堅持することは間違いですか? 良い人になりたい、良い人よりもさらに良い人になるのは間違いですか? あの人たちは私たちの同修を気が狂ったように迫害しており、真相を伝えて事実を暴露すべきではないですか? 師父は「殺人や放火事件を見て見ぬふりするのは、心性の問題です。そういうことをしながらどうして自分が良い人だと主張することができるでしょうか? 殺人や放火事件にさえ手をこまねいているとすれば、どんなことならあなたが手をこまねかないのでしょうか?」[1]と説かれました。師父も誹謗中傷され、心の辛さは道を歩いている時も泣きたいぐらいでした。しかし人々に理解されず、軽蔑され、悪意を持つ目で見られ、沈黙することなどできないと思い、「忍」ができるわけがありませんでした。一度家族との会話の中で私は、「あなたたちは私のことを何と言っても構わないが、師父を悪く言わないでください。私は許しません」と言いました。法に基づいた対処の仕方が分からないため、人に法輪功のことを話すときは大体争ってしまい、家族に真相を伝えるのも喧嘩になってしまって、結局いつも冷戦状態になり、数日を経てやっと仲直りできました。心の中で恨んでいました。十数年が経ち、多くの大小の事を経験し、今振り返ってみると、自分はずっとこの「忍」を修めている気がします。
同修
同修Lといつも一緒に法を勉強して交流し、7.20後のしばらくの間、互いに励まして支え合い、明慧ネットで(最初はネット封鎖がされていなかった)全国各地の多くの同修が北京へ行き、法を実証した正念と正しい行いの感動物語と、神として多くの功績を見ました。私たちは資料を作って配りに行き、一緒に交流しました。また、恐れる心や正々堂々とできなかったこと、危険に出合うこともありました。すべて師父の加護の下で乗り越え、それから同修がだんだん増えてきて、私たちは真相資料を作り始め、さまざまな方法を考えました。以前の同修に年賀状を送り、直接訪ねて交流し、一緒に北京へ法を実証しに行き、風雨の中で大法への信念を持って数年歩みました。
その後、共に洗脳班から出てきて、私たちは人心のため修煉の道で転んでしまいました。また、この汚点を直視したくないという人心により、法の勉強がことごとく妨害されていました。幸い師父の慈悲の呼び掛けで共に修煉に戻ってきましたが、それから私たちの間に大きな隔たりが生じてしまいました。しばらくの間トラブルが激化して、互いに軽蔑し、いろいろな要素の作用で、自分の耳に入ってくるのは彼女から自分への指摘ばかりでした。私は同修の間でよくない影響を起こしてしまい、いろいろな指摘を受け、心の中で苦しさに耐えられませんでした。内に向けて探し、自分を高める必要があると確実に分かっていても、逃げないように自分に言い聞かせても、私はやはり絶えず同修Lと同修Mの問題を目にしてしまい、問題がどこにあるのかがもう分からなくなってしまい、いつも不平に思い、たとえ自分自身に問題があっても、修煉の中で問題がない人がいるのですか? あなたたちには問題がないのですか? 同修のあれこれの問題ばかりを考えていました。
ある日、自分が人生の道、修煉の道をどうやって歩んで行くのか分からなくなった時、屋上で空を見上げて師父を呼んで、自分の心中の恨み、不平を全部出しました。私は「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」「2」という、師父の法を思い出しました。突然頭の中で数名の同修が苦しい環境の中で真相資料を作って、全身投入している姿、同修の良いところばかりが見えました。法を実証し、衆生を救い済度するために頑張っている同修はどんなに偉いのでしょうか! その瞬間、私の涙は止まり、同修との差が分かり、自分の問題がどこかにあるのか、どうすべきかが分かりました。もう同修の口調と表現の仕方にこだわりません。このすべてが自分の修煉によって生じたもので、現した人心を修め取り除くべきと分かりました。その一瞬で体を包囲したマイナスの要素がなくなりました。その後、同修Aは私と数人の同修に謝罪しました。しかし、この時私はすでにこの事で喜びや悲しみを感じることもなくなりました。
トラブルが緩和したのでもう大丈夫かと思いましたが、やはり本音を打ち明けることができず、何かが引っかかっているようで互いに信頼できませんでした。周囲の同修は「あなたたちは以前、本当に仲が良くてお互いよく協力しており、その威力はとても大きく、みんなへの影響もとても良かった」と言いました。しかし、私は自分の問題が見つからず、私には問題がないと思いました。実はこの問題がないということが問題でした。
この2年間、全体が自らを修める重要さを意識し、みんなで繰り返し師父の『オーストラリアの学習者への説法』のビデオを見て、みんな自分のことを言っていると感じて、真剣に内に向けて探していました。私も自分を見つめて考えていると、同修の率直さが見え、同修の大法への変わらない堅持が見え、自己を守りたいという利己的な自分が見え、いつも他人を見ている自分が見え、傷つけられたくない自分が見え、他人に修煉がよくできていないと言われるのを恐れ、再びトラブルが生じる事を恐れる自分が見えました。また、自分はまたしても恨みを抱え、他人の過ちを許せず、他人の執着に執着する自分が見えました。これは真に自分を認識することを妨げ、向上を妨害して、よく協調することができず、協力したくないというところに至っていました。私は彼女に謝罪しました。本当に相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができると、自分を正し、深く潜んだ嫉妬と恨む心を掘り出すことができました。彼女と和解して、誠実に冷静に同修と自分を見つめ、その過程で他人を大切にし、人を理解し、寛容の気持ちを学びました。
(続く)
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』『忍とは何か』
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/9/3/2830.html)