文╱―心清
【明慧日本2017年6月22日】師父は「大法弟子は師の衆生を救うことを手伝うという責任を持って世に降りた神であり、下界の衆生を救い済度する責任があるのです」 [1]と説かれました。人を救うことの緊急性と時間の厳しさをよく知っているため、特別な場合以外、私は毎日電話をかけて人を救うことをしています。もし、1人も救えない日があれば、私の心はとても辛くて苦しくなります。もちろん、救われる人数は一定せず、多い時で10数人、少ない時は数人の場合もありますが、現在まで、私はすでに1万千人ほどの人を救いました。もちろん、それは自分の目標にはまだまだ到達してはおらず、師父が私に配分された無量で膨大な生命群と比べても、ごく僅かに過ぎないことを十分に承知しております。
人を救う中での苦しみと楽しみ
私は主に電話をかけて真相を伝え、三退を勧めています。この方法は便利かつスピーディーで、随時随所で掛けられるのが魅力です。他の同修たちにも是非、面と向かって真相を伝える以外、電話をかけて人を救って見てはいかがでしょうか、お勧めです。
電話をかけて人を救う中で、苦しみと楽しみがあります。苦しみとは、自分が怠けて精進しない時、法を学んでも心に留まらない時、空間場が清浄でない時、そのような時、人を救うことはとても難しくなります。そうした場合、相手は電話に出てもすぐに電話を切るか、暴言を吐くか、或いは三退を拒否するかのどちらかなのです。時には、真相を話して「中国共産党の関連組織に加入したことがありますか?」と聞くと、向こうは「はい、入りました」と答え、「じゃ、別名を作って三退して平安を守りましょう」と勧めると、相手はどうしても承諾してくれない場合があります。この時、人を救えないわが心は誰かに棒で殴られたようにとても痛く感じます。内に向けて探せば、「もし法をしっかり学ばず、衆生と同次元に立っていれば、話した言葉には威力がなく、衆生を救うことができない」と悟りました。
楽しさとは、法をしっかり学んで正念が強く、トラブルの中で自らを厳しく律する事ができ、慈悲で平和の心が保たれていれば、電話をかけてもとても効果的です。真相を話すと、相手はすぐに認め、すぐに三退を承諾してくれ、そして、久しぶりに会った友達のように話を聞きながら笑い、その笑う声がとても優しくて純真なものになるのです。時には電話を掛ける度に人が三退をしてくれるので、自分がまるで彼らの救世主であるかのように感じました。
ある日、一本の電話が入って来ました。私は折り返し電話をすると、相手は「今日、どうしても、あなたと話がしたいのです。これはいったいどう言う意味でしょうか?」と言われました。私は「落ち着いて話して下さい」と言うと、相手は「昨夜、あなたが我が家に来る夢を見ました。あなたは背が低く、痩せていて、私の手首に6個の金のブレスレットをつけてくれました。この金のブレスレットって何の意味ですか?」と聞かれました。私は「金のブレスレットって宝物ですよね。財宝ではないでしょうか? それは幸せです。つまり、あなたは救われるのですよ」と言って、彼に大法の真相を話し、三退を勧めました。中国共産党・党員の彼は、すぐに脱退を表明し、そして、しきりにお礼を言ってくれました。残念ながら、その時は私も少し興奮気味で、「6個の金のブレスレットって3人に与えるもので、2個がワンセットですから、彼の家族3人は救われるべきだ」ということを悟らず、彼1人しか救えませんでした。もし、縁があれば、師父はきっと他の大法弟子に彼の家族を救わせるように按排されるだろうと自分に言い聞かせました。ここでは、慈悲で偉大な師父が私の宇宙の衆生が救われるために、細心に安排されたことに感謝致します。
時には相手から「あなたは教授ですか?」「あなたは労働組合の幹部ですか?」「あなたに感謝します」「あなたの声はとても素晴らしいですね!」「話が上手ですね!」などの褒め言葉を頂きます。それは師父が衆生の口を借りて私を励まして下さり、そして、もっと多くの人を救うように励まして下さっています。実は、すべては師父が下地を作ってくださり、私は口を動かしているだけです。なのに、師父は威徳を全部私に与えて下さるのです。私は精進しない理由があるのでしょうか。一日も早く誓約を果たし、多くの人を救い、自分の使命を果たさなければならないと思いました。
トラブル中で執着を取り除き、自分を高める
主人(同修)と一緒に同修Aさんの家で法を学んでいます。6月のある日、Aさんは我が家に来て、ご主人に対する不満をたくさん言いました。その時、私はあまり気にせず、何も考えていませんでした。翌日、主人からこの件を聞かれ、やっとAさんの真意、つまり彼女の家に法を学びに来てほしくないという意味だと分かりました。Aさんが指摘したご主人の三つの問題点を思うと、私の心はナイフに刺されたように痛くて辛くなりました。そして「集団学法は師父が残して下さった方法で、師父のおっしゃる通りにしないのはとても許せない、皆で一緒に法を学ぶのは、長い間集団学法に参加しなかった主人を助けるためのもので、しかも、Aさんの家で一緒に法を学ぶのは週一回しかないじゃないか」といろいろ不平不満が脳裏に浮かび、そして、考えれば考えるほど腹が立ち、自分の空間場にはAさんに対する怨む気持ちが充満し「Aさんが悪い、そして、同修は師父が按排された道を歩んでいない、旧勢力が按排された道を歩んでいる」などの非難の言葉でいっぱいになりました。
強い人心によって、私は落ち着いて法を学ぶことができず、煉功しても気が散り、甚だしきに至っては、悲しくて涙も流しました。もちろん電話をかけて人を救うことにも影響しました。電話をかけると、相手は三退を承諾するどころか、「あなたは精神病患者じゃないか」と暴言を吐かれました。罵声の中で、私は目が覚めました。「やはり自分が間違ったのだろうか? 電話で私のことを病気だと怒鳴られたのはなぜだろうか? 私は修煉者ですから、トラブルに遇った時、まず内に向けて探すべきではないか、トラブルに遇った時、第三者でさえ自らを探さなければならないのではないか」と思いました。
突然、師父がおっしゃった「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[2]を思い出しました。私は繰り返し師父の詩を暗唱しました。そして、自分の強い闘争心、メンツを重んじる心、人に言われたくない心、傷つけられたくない心に気づき、トラブルの中で心性を高めなければならず、大なる関小なる関を一つも落とさず、すべて乗り越えなければならないと思いました。さらに、何かに遇えば、内に向けて人心を探さし、今までの他人が間違って自分は正しいという根強い旧い観念、この千百年来、骨まで染み込んだ人間の道理を改めなければならないと思いました。そして、それを改めなければ、真に修めていないことだと分かりました。
ここで、同修に真摯に「ごめんなさい! すべては私と主人が悪かったのです。あなたは私達の心性を向上させ、自身の強い人心と執着心を探させてくれました。そして、主人は厳粛に法を学ぶことが出来ず、師と法を敬うことが出来ていないとのご指摘もその通りです。彼が学法の時、水を飲んだり、話をしたり、歩いたり、身勝手なことをしたりして、同修を傷つけてしまい、同時に旧勢力に乗じられる隙きを与えてしまったことをお詫びします」と言いたいです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」