文╱金風
【明慧日本2017年6月25日】「口癖」とは、人々が無意識のうちに度々使う言葉を言います。本文では大法修煉の立場から「口癖」について検討したいと思います。
人は性格や生活環境、考え方や教養などの違いによって、よく使う「口癖」も異なります。1人の人の「口癖」からその人の執着を見抜くことが出来ます。以下ではいくつかの例を挙げて見ました。
一、「私は本当に可哀想だ」
ある年配の同修はいつも自分の幼い頃、生活が辛かった、親が自分を大事にしてくれなかった、大人になってから間違った嫁ぎ先に嫁いた、姑や夫に虐められた、息子や嫁達に優しくされなかった、自分には収入がない、他の人の生活が豊かだなどを言って、そして、よく「私は本当に可愛そうだ」と言います。
師父は「常人の基準で高次元のことを判断しようとしますが、そんなことができるでしょうか? こうして、生活の中の辛さを自分に対する不公平だと思い込むことが原因で、多くの人が見る見るうちに堕ちていってしまうのです」[1]と説かれました。同修よ、よく考えてみて下さい! 自分が可哀想だというのは他人から同情してもらいたいからではないでしょうか。その考え方は人間の中で幸せを求めたいものではないでしょうか。それは「情」の表れです!
大法弟子として、私達は正しい法理を持って物事を見るべきです。師父が億万人の中から私を選んでくださったことはどれだけ光栄なことなのでしょうか! 私達は法を正す時期の大法弟子で、師父と同じ世で、法を正す師に手伝うことができて、それは宇宙の中でこの上ない光栄なことなのです! 苦しみを嘗めることは天に帰る路を敷くためではないでしょうか。どうして「可哀想」だと言えるのでしょうか。「本当に光栄なことです」と言うべきではないでしょうか!
二、「私の話を聞いて」
2人あるいは数人が話をする時、一部の同修は「私の話を聞いて」とよく言います。このような口癖は党文化の現れです。このような言い方をする人は往々にして自我に執着し、強調し、時には苛立ちや闘争心も伴っているのです。
同修間での交流は、口調が穏やかで、態度が優しく、他人を尊重し、修煉者らしく振る舞わなければなりません。常人と話す時も「大法弟子の品格」を見せるべきで、口を挟まない、強引な言い方をしない、親切で平和に交流すべきです。こうすれば世間の人を救い済度することに役に立ちますし、そして、私達「修煉者の風格」は後世にも影響を与えますので、慎重に行わなければなりません。
三、汚い言葉を言う
党文化の影響で、地元の一部の同修はよく汚い言葉を使っています。男性同修の場合、とりわけこの傾向が強いのです。物事が順調に運ばない時、誰かに妨害された時、怒った時、汚い言葉がすぐ口から飛び出し、言葉には怨恨心も帯びています。「もう慣れたから、自分も感じていない」という人もいますが、それは非常によくない習慣で、党文化の一種です。それは大法弟子のイメージを損なうだけではなく、世間の人の救済にも悪い影響を与えます。大法弟子として、厳しく口を修め、汚い言葉を使わず、「口から蓮の花を吐く」ようにしなければなりません。
同修達の口癖には、「つまらない」、「面倒くさい」、「適当でいいでしょう」、「やる気がない」、「面白くない」、「噂では」、「絶対」、「当然」などなどがあります。深く追求すれば、その背後に相応する執着がありますので、それはすべて私達が修めるべきところです。
次元の限りがありますので、正しくない所があれば、同修達のご叱正お願いします。ぜひとも精進していただき、師父の慈悲なるご済度に背かないようにしていただきたいと思いす。 合掌。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』