一思一念を修める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年7月1日】長年、同修たちが自分の一思一念を修めるべきことについて交流するのを見て、当時の私は自分の次元に限られ、自分の一思一念を修めることとは何か、そして、そうすることの重要性を完全に理解できていませんでした。

 修煉当初、私は後日に発生する事をよく夢の中で事前に見ることができました。そして、それらの事は後日にすべて的中しました。ある日、友達を誘って遊びに行こうと思った私は、その友達の家を訪ねました。彼女は私を玄関に待たせてコートを羽織ろうとするとき、彼女の祖母は彼女に近づき、服の裾をきれいに延ばしてあげました。その場面を見た瞬間、私は夢の中でこのシーンを見たことを思い出しました。しかも、夢の中で彼女の祖母が言ったセリフもはっきり覚えていました。次の1秒、私は固まりました。彼女の祖母は私が夢でみた通りの言葉を言い出し、しかも一言も違っていませんでした。

 以前、私はずっと世の中の事は按排された通りに行われているのだと思い、自分が言った言葉や取った動作のすべても細かく設計されているとは認識できませんでした。この事を通じて、同修たちが言う自分の一思一念をきちんと修めて初めて旧勢力の按排を徹底的に否定できることが分かりました。旧勢力はすべての大法弟子に対して綿密な按排を行いました。あなたの考え一つが法に符合していなければ、容易に旧勢力の按排した思惟方式に入ってしまうのです。しかも、往々にしてあなたはそれが本当の自分の考えだと思い込み、どれが自分、どれが旧勢力かをはっきり見分けることができないため、旧勢力の按排を否定するなどはなおさらできないでしょう。

 一思一念を修めることの重要性を認識してから、私は日常生活の中の自分が発した念を注意深く観察してみると、本当の自分による念がとても少ないことに気づきました。一例ですが、私がアルバイトをしているレストランはふだん景気があまりよくなく、いつも客が少ないのです。しかし、ある日突然、店内が超満員になりました。私は面白いと思って、理由を深く考えてみました。あの日、店内が満席になって、通りかかった客はこんな満席になるレストランの料理はきっと美味しいのだろうと思って、続々と店内に入ってきました。こうして、顧客はどんどん多くなりました。これは小さな事ですが、じっくり考えてみる価値がありました。実際、レストランの顧客人数の多さとその料理の美味さとは必然的な関係はないはずです。なのに、なぜ多くの人はその両者を結び付けてしまうのでしょうか? これはまさに人間が形成した観念が人間の行動を左右しているのです。店内に入ってきた顧客たちはみごとに観念に左右されて身体が動いたのです。

 師父はこのようにおっしゃっています。「なぜならば、人間の考えの由来と考えそのものは極めて不安定なものだからです。人間に主元神、副元神がおり、さらに後天に形成された各種の観念、善性と悪性、外的な要素、この全ても作用しています」[1] 日常生活の中で、私たちの一思一念にはもしかすると旧勢力から押し付けられた思想、後天的に形成された観念、或いは他空間による妨害があるのかも知れません。どれが本当の自分だとはっきり見分けることができない時、容易に旧勢力が按排した道を歩んでしまい、或いは他のものに支配されて三つのことの実行に支障をきたして、時間を無駄にしてしまうのです。

 その後気づいたのですが、迫害に遭った多くの同修は平素から自分の一思一念を修めず、それに流されてあれこれといった無意味なことを行い、結局、問題を山積みにしてしまい、旧勢力に隙に乗じられて迫害されてしまったのです。

 個人的に思うには、日常生活の中で頭に何かの念がよぎったとき、それが真我の念かどうかを能動的に判断すべきです。それがよくない念だと気づいたとき、すぐに発正念をして排除すべきです。随時にはっきりとした念を保つことができなければ、眠る前に1時間をかけてその日の出来事を回想して、その中でどの考えが法に符合しなかったのか、どの行動が旧勢力に沿って行ったものかを分析し、問題を見つけたら意図的に修めていくのも一つの方法です。たとえば1日目に、人と面と向かって真相を伝えることができない恐れの心、あるいはそれを嫌がる心が見つかったら、翌日にそれを修めるのです。見知らぬ人と会話することに対抗を感じるあなたは、翌日に道端で赤の他人に話をかけてみるのです。会話の内容はどうでもいいので、話しかけることに意義があって、その心から突破して向上していくことが肝心です。そして2日目の夜に、その日のよく出来ていなかった部分とよくなかった念頭を探し出して、3日目にはさらに努力して2日目より良くなるように頑張ります。こうして、毎日能動的に自分の執着心を少しずつ修めていくと、日に日に進歩して向上していくことができると思います。師父は「法を学びて法を得る  比べて学び比べて修す  事々対照し  做すところ到るは是れ修なり」[2]とおっしゃっています。「比べて学び比べて修す」にはもう一つの意味があると個人的に思います。それは、常に法に照らし合わせて自分の考えや言動を見て、事ごとに法に従って自分の念や行動を律して着実に修煉していき、法の基準にますます接近し、宇宙の特性にますます同化していくことを目指すのです。

 個人の次元による体得ですので、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇五年マンハッタン国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/11/332604.html)
 
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