修煉の中の小さいことに気をつける
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文/海外の大法弟子

 明慧日本2017年7月15日】古い大法弟子として、言動上で私に色欲の問題はありません。それでは、考えの中はどうでしょうか。修煉が最後に差しかかっているため、要求も高まっていると私は知っています。すべての考えの中から色欲の心をなくさなければなりません。時には考えの中に確かに良くない考えが現れたりしましたが、私はそれを排斥しました。もし私に本当に問題がなければ、このような妨害は現れるはずがありません。絶対私に自分で意識できていない問題があるはずです。もしまだ認識できていなければ、恐らく自分が思う所謂小さいことかもしれません。

 師父は「一部の学習者は病業の関を乗り越えられません。重大な過ちばかり考えないでください。大きな過ちがなく、法に対して確固たる信念を持っているとあなたは思っています。しかし、あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです。修煉は厳粛であり、漏れがあってはならないからです。あなたはそれらのことを長い間修めていません。小さいことですが、あなたは長い間重視していません。これで大ごとになりました。多くの人がこれで命を失いました」[1]と説かれました。

 私は自分の普段から気付いてない色欲面での小さいことを振り返ってみました。その時頭に一つの念が浮かんできました。あなたはいつも映画やテレビに出てくるスターの私生活に関する報道を見ているのではないかと。なるほど、このことだったのかもしれません。私は基本的に常人のウェブサイト(仕事で必要なもの以外)を見ることはありませんが、休憩の時よく学習者が常人のために立ち上げたウェブサイトを見ます。私達修煉者ならみな知っていますが、それらのウェブサイトは真相を伝えるために作ったもので、常人に関する内容は常人の興味に合わせるための調味料にすぎません。しかし、私はこれらに非常に興味を感じ、常に興味津々に読んでいました。特にそれらのスターの感情生活や、私生活に関する報道を続けて注目していました。これは実際色欲の心の変わった満足方法ではないでしょうか。

 学習者が立ち上げたウェブサイトだから、自分が別に悪いことをしたとは思わないのです。時にはこれらのことに興味を持ってはいけないように感じますが、小さいことだと思い、長期にわたり重視しませんでした。実際頭の中に現れた良くない考えは恐らくこれらのウェブサイトをみる時に作られたものでしよう。それを排斥することは正しいと知っていましたが、排斥しながら、また注ぎ込んだから、いつになっても排斥しきれませんでした。

 これほど長い間、修煉の中で法理を知っていて、実際の生活の中で如何なる色、欲に関するものを求めてはいけないと知っており、自分を制御することも難しくないと感じていましたが、しかし思想の中はまだ少しこの方面の憧れを保留していたから、旧勢力はこの点を利用して、私に学習者が作ったウェブサイト上のものをみるのは大した問題ではないと思わせ、それらの美男美女の豊富で多彩な感情や生活を読む中で色欲の心に栄養を提供していました。同時に私に安逸の心があり、娯楽ニュースを読む中で自分をリラックスさせること自体が安逸の心の現れでした。長期にわたりこのような娯楽ニュースの中に溺れていては、自分の精進する意志を削り取っており、実際は非常に危険なのです。

 本当に修煉には小さなことはありません。今から私は本当に厳しく自分を要求し、絶対色欲の心と安逸の心を放縦せず、あれらの常人のものをみないようにします。この問題を認識できた日から、私は再びそれらのものを見なくなり、私の身体の正しくない状態もその日に消えました。

 このことにより私は師父の説かれた、いかに旧勢力の妨害を否定するかの法理について更に理解することができました。まずは自分の執着を認識しなければなりません。内に向けて探す時自分の問題を見つけ出さなければなりません。もし自分が表面上非常によくできているから、自分には色欲の方面で問題がないと思うなら、自分が隠したこの小さいことを見つけ出すことはできません。次に、問題を見つけたら主意識を強くさせないといけません。それが自分の本性ではないと見分けなければなりません。自分の執着が利用され、妨害されたと認識できたら、必ず決心してそれを改め、直ちに自分の行為を修正しなければなりません。同時にこの方面の考えを排斥し、最後に師父に加持を求め、同時に発正念をして妨害を取り除きます。師父は「あなたが本当にこれをやり遂げることができれば、口先で言うだけではなく、行動においてこれをやり遂げることが出来れば、師父は必ずあなたを支持します」[2]と説かれました。

 師父は私たちに修煉の中の小さいことに注意するようアドバイスしてくださいました。実際更に深い角度からみると、それらの小さいことはいずれ非常に厳重な問題です。例えば、上で述べた私の所謂小さい事は表面上大きくないように見えます。ただ仕事が暇な時間に少しリラックスし、少しウェブサイトをみただけです。しかし私たちはみな知っていますが、現在の時間は師父が巨大な肩替わりをしてくださり、私達の修煉と人を救うために伸ばしてくださったのです。もし私達がこの時間を利用して、暇をつぶし、娯楽を楽しみ、ひいては自分の色欲と安逸に栄養を提供したら、それは犯罪ではないでしょうか。

 師父は私たちに「皆さんに教えますが、大法弟子は決していい加減に対処してはいけません。間もなく乗り越えるこの関ですが、もうすぐ乗り越えそうなのに、まだある執着を取り除くことができなければ、基準に達することができず、乗り越えられないのです。修煉が良くなったら乗り越えられるのではありませんか? どうしても乗り越えられず、いつも同じところで止まっています。しかし、あの問題は大したことがなく、あの執着は大きなものではなく、非常に小さいのですが、それに気づくことができなければ、乗り越えられず、いつまでたってもそこに止まっています。これはあなたの修煉がよくできていないと言っているのではなく、あなたは真剣に考えず、これらのものが修煉に符合していないと気づいていません!」[3]と注意をうながされました。

 私は師父の注意を謹んでこころに刻み、厳しく自分を要求し、魔性を放縦させず、時間を大切にし、最後の道をしっかり歩みます。師父は終点で私を待っておられ、私達が更に多くの衆生を連れて帰ることを待ち望んでおられます!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年旧正月十五日の説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/11/350900.html)
 
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